社会システム変容の研究と有識者のコラム集 コラム⑪ インターネット

    ウェルビーイングの増進のためのインターネットの役割:情報社会論的な素描 国際大学グローバル・コミュニケーション・センター
    主幹研究員/教授(情報社会研究グループ)
    渡辺 智暁

    はじめに

    本稿ではウェルビーイングとの関係で、インターネットの普及した社会の特徴の整理や評価・展望などを論じる。

    まず、本稿の要旨を述べる。前半ではインターネット社会の特徴を整理する。筆者の考えでは、大きな特徴は個人の影響力増大にある。ただし、大組織(国家や企業)の影響力増大も生じている。個人と大組織、それぞれの影響力が拡大することには功罪があり、いずれも手放しで喜べる変化ではない。筆者は個人のエンパワーメントと、それを可能にする大組織という社会のあり方に期待をしたい。その観点からは、昨今盛り上がりを見せている監視国家への警戒や巨大プラットフォーム事業者への警戒などが、大組織による社会・経済への貢献拡大の過剰な牽制にならないことも重要と考える。

    後半ではウェルビーイングとの関連を論じる。本稿の文脈で考えると、インターネット社会では監視国家や巨大プラットフォームによる支配などによって人々の主観的幸福度が抑制されるというリスクもあるが、逆にそのような大組織が抑圧の度合いを減らし、人々を幸福にする能力を高めることに期待している、というのが前半の議論からウェルビーイング論へのストレートな展開になる。同時に、その逆の問題も感じることがある。異質性や多様性の意義としてそれを考察する。インターネットとウェルビーイングに関する当面の課題は主観的幸福度を下げる懸念への対処だが、長期的には異質性や多様性のある豊かな人生をもたらすことにもまた、筆者は期待したい。

    情報の不特定多数への発信機会の拡大と、個人の影響力拡大

    インターネットの普及とともに社会に訪れた大きな変化は、情報の大規模発信の機会が従来よりも圧倒的に幅広い人・組織に提供されたことにあると、筆者は考えている。大規模発信というのは、典型的には不特定多数に対して発信するというものだ。マスメディア的な1対多の情報伝達が安価・簡易になったと言ってもよい。例えば災害や事故などの現場から発生時や発生直後の様子を発信するのは、今日ではそこに居合わせた個人であることがしばしばだ。マスメディアから派遣されたジャーナリストではない。情報の発信だけではなく、例えば不要になった所持品を売りに出すようなことも、幅広い人にとって容易になっている。物品の売買や譲渡の他にも、1対多でできやすくなったことはいろいろある。自分の住居の空き部屋を貸し出して、それを必要とするどこかの誰かに使わせるとか、自分の空き時間と移動手段を使ってちょっとした配達の仕事を引き受け、ちょうどそれを必要としている人に物品を届けるといった形で、個人が不特定多数の人に対して何かの資源やサービスを提供するような活動、あるいは、自分が成し遂げたい事への支援や困窮状態を解消するための支援として資金提供を不特定多数に向けて募ることも、各段に簡単になっている。

    インターネットについてはさまざまに定義することが可能だが、これをTCP/IPによる通信だとすると、そのような通信や、その通信プロトコルで想定されているような分散型の構造を持った通信ネットワークだけを考えても、上に挙げたような社会の変容が起こることは容易に説明できない。そのような通信インフラに、データベース技術や情報解析の技術、あるいは決済システムなどさまざまな要素が連結され、また、インターネット以外の社会インフラなどとも連動して、上のような社会変動が可能になっていると考えるほうがわかりやすい。その場合にも、個人がそういった行動を安価・簡易にとれること、その相手が不特定多数であったり、その一人であること、などといった点がインターネット社会の特徴になっていると言える。

    個人が情報を発信する、個人が物品やサービスを提供するといったことだけでなく、コラボレーションを可能にしている点も興味深い。それまでは面識や契約関係などがなかった者同士が、アイディアやスキルや時間などを少しずつ持ち寄ってソフトウェアや百科事典を作成する。

    こうした諸々の可能性が複合的に機能することもある。モノづくりの領域を考えると、3Dプリンターなど、デジタルデータをベースに造形する技術的手段は増加し、安価な選択肢も増えた。それがインターネットの提供する環境と組み合わさることで、機器の操作方法についての情報が共有され、造形のための自由に使えるデータも多く流通し、モノづくりのノウハウについての情報やアドバイスも豊富になっている。これらの情報の中には組織が提供しているものも含まれるが、多種多様な個人が提供しているものも多く含まれる。このような状況の変化はモノづくりの「民主化」と形容されることもあるが、インターネットと、それと組み合わされる他の技術や社会的機能のお陰で、ちょっとしたモノを作る機会、その際に縁の薄い人の力を借りることや、見ず知らずの他人のモノづくりに有益なデータを提供する機会などが増大した、と見ることができる。

    また、「発信」や「呼びかけ」といった主体的な行動を伴わない形で、個々人の活動が不特定多数の他人に影響を与えるような事象も増えているように思われる。例えば人々の活動の痕跡がデータとして残り、活用できるようになったことから、検索エンジンやレコメンデーション・エンジンなどが可能になっている。特定少数の専門家や専門組織の知見ではなく、不特定多数の人々の判断を集約してこうした評価情報の生成ができるようになったという点では、やはり個々人が情報を通じて社会に影響を与える機会が拡大したと言えるだろう。

    見方を変えれば、縁の薄い他人との関わりが容易にもなったし、増大もしたのがインターネット社会だということになる。インターネットはさまざまな人を関わらせることができる技術であるため、と言えるだろう。

    オープン化

    幅広い個人がさまざまな情報を発信できるようになり、それが利用できるようになったことを別の角度から見ると、従来よりも幅広い個人がある活動に参加したり、影響を与えたりできる余地が増えた、ということになる。災害についての情報伝達であれ、ラーメン店についての評価であれ、組織でも、特定少数の専門家などでもない人が貢献する度合いが増し、そうした人々が持つ影響力が増した。このように「あるプロセスにより多数・多様な人々が参加できるようになったり、影響力を行使できるようになる変化」を、筆者はオープン化として捉えている。

    費用対効果の面から見ても、オープン化が優れた選択肢になっている場面は多くある。インターネットを用いずに政治運動を起こすことや、災害報道のための情報収集をすること、百科事典を編纂することなどを考えるなら、その費用の大きさ、効果の小ささが想像しやすいのではないだろうか。もっとも、オープン化は無限に費用対効果を改善するわけではなく、ほぼ何にでも「最適なオープン化の度合い」があると想定される。ある活動にとってのオープン化の最適な程度を左右するのは、一つは多種多様な人々の参加を実現するコストであり、もう一つはオープン化から得られるベネフィットである、と考えることができる。コストは、技術的な変化が今後も機能拡充や安価化の方向で起こることで、下がっていくことが多いだろう。潜在的な参加者と参加する対象となる活動のマッチングを支援するような技術や、それに使える情報も拡充していく可能性が十分ある。ベネフィットがどの程度存在するかは、オープン化の対象となる活動、プロセスによってさまざまだ。多くの人が参加することでより質が高くなるような活動やプロセスは、そのコストが十分に下がれば、オープン化が進む傾向があると言えるだろう(特に同業者間の競争が存在する領域ではそうだろう)。多様な意見を集約すること(集合知が有効に機能する領域を含む)や、多様な関心のマッチングをすることなど、多様性をキーワードとするようないくつかの活動については、オープン化によるベネフィットが見込めることが多くある。多様でなくとも多数の動員が意味を持つ場合にも、オープン化によるベネフィットが見込めることがある。

    古くて新しい問題としての個々人の限界

    オープン化には負の側面も存在する。例えば多様な個人が影響力を持ったことで、組織や専門家が主導する世界では起こりにくかったような陰謀論の流行やフェイクニュースの拡散が起きている、といった点に近年注目が集まっている。完全に新しい問題ではないが、個人が影響力を持つことの負の側面を考えるには興味深い題材だろう。

    もっとも、近年ではFacebookやYouTubeなどがアルゴリズムを通じて人々を誘導して、より過激なコンテンツを消費させ、それが陰謀論の拡散や政治的に過激な思想の浸透に一役買っているといった説が見られるようになった。あるいは、特定の政治的なフェイクニュースの拡散の背景には、ロシアなどの特定の国家が行っている情報操作活動の影響があるといった説もある。

    もしこれらが本当だとすれば、個人の影響というよりも特定の大組織の影響で、こうした現象が発生している可能性もあるということになりそうだ。研究者による検証を見ると、プラットフォームによる誘導が起きているかについては判断の留保が必要な部分もありそうだ。だが、もともと存在していた陰謀論やフェイクニュースが単に人々自身の影響力の強化によって拡散しただけでなく、そこに一般の人々とは区別して考えられる国家や大企業などの影響力が加わって、より大きな規模の現象になった、という理論的可能性は一概に否定できるものではないだろう。

    大組織の影響力拡大

    オープン化や個人のエンパワーメントはインターネット社会の主要な特徴だと筆者は考えているが、その逆の変化も生じている。大きな組織が大きな影響力を行使できるようになる可能性だ。この可能性はしばしば、大組織が大量の情報を集められるようになったことと結びついている。大組織が大きな影響力を持つことは、インターネット以前の社会においても度々生じていたことであり、そのレベルでは新規性はないが、インターネット社会は個人の影響力だけが拡大する社会だと考えると一面的になってしまうため、大組織の影響力拡大にも触れておきたい。

    個人の影響力の増大と、大組織の影響力の増大という二つの互いに逆方向の変化が同時に起こる、ということは一見論理矛盾のようにも聞こえるかもしれないが、現実にはそうでもない。映画にたとえるなら、インディーズ映画を制作・配信するコストは非常に下がり、さまざまな人が参入することを可能にしており、そればかりかTikTokのような数秒の動画が億単位の視聴数を得ることも可能な環境になっているが、他方でCGやAIを駆使して巨額の製作費をかけた映画を制作することで達成できる質・市場競争力も向上している。ある面では個々人と巨大組織は競争関係にあるが、どちらかが全面的に競争に勝つというようなことはなく、ベクトルの違う変化が同時進行する中で棲み分けも生じていると整理するのが適切だろう。

    大組織の影響力が、情報の発信力ではなく、収集・解析力に結びついた形で成立することが多いようであることは興味深い。ハイエクはかつて、自由市場経済の利点として個々人が持っている知識、自分が何をどの程度欲しているかの知識を活用できる点を挙げ、計画経済に対する優位性を主張したが、その逆も生じているように思われる。すなわち、個々の消費者の行動や言論、身体状態などのデータを通じて本人が自覚していない欲求すら検知できる社会、それを同種の人々と比較・分析する中から本人が自分で選ぶよりも効率よく優れた提案をしてくれるようなレコメンデーション・エンジンが各所で機能する社会、というのはあながち絵空事ではなくなってきている部分がある。そうなった時には、個々人の消費の自由が最も効率的だと前提するような自由市場とは少し違った、ある種の自由の制限が組み込まれた社会のほうが効率的である、という論が成り立つかもしれない。

    そのような知の集積を理由とした大組織のアドバンテージの他にも、生身の人間を介在させずに、大規模な情報通信システムに担わせるほうが高速・効率的な処理ができることから生じるアドバンテージも存在する。証券などのトレーディングについては人間の判断を減らしてアルゴリズムに任せるほうがよい、という領域が既に拡大している。気象予測のように、大規模な資本によって達成できるような情報処理能力の動員と大量のデータ集積によって得られるようになる知見はさまざまな分野に存在しており、大組織の役割を大きなものとしている場合がある。

    もっとも、情報処理能力の動員だけで言えば、distributed computingと称されるような、個々人が所有しているPCの少量の遊休処理能力を寄せ集めることで、通常の巨額の投資では実現できないような情報処理能力の動員が可能になるケースも存在している。地球外知的生命体の探索であるとか、がんなどの治療薬の探索であるとか、多くの個人の協力を得られやすいミッションについてはこうした試みが成功していることから、大組織と多数の個人のコラボレーションが影響力を持つということもある、という一般的な形を見ることができるだろう。

    巨大なシミュレーションや大規模データ解析に戻って考えると、こうした議論の延長には、昨今しばしば論じられるような民主制の役割の低下を考えることもできる。例えば政策オプションの設計や選択をするのにAIを活用するほうがよい、という時代が到来するといった議論だ。筆者は現段階ではかなり懐疑的だが、真剣な議論の対象にはなっている。それよりも現実に起こりそうな可能性は、国家の監視能力の拡大によって人々の言動の自由を牽制したほうが、犯罪などのトラブル防止や摘発には有効であるという理由で、市民の権利を制限して効率的な秩序維持を図る、といった類の民主制の役割低下の方向にあるように思われる。

    プライバシーとオープン化

    これらについてもう少し別の角度から、オープン化とプライバシーの関係として捉えることができる。

    オープン化は、「自分」のコントロール下にある情報や資源や権利などを他人に委ねると、自分が思わぬ恩恵を得ることがある、という形で理解することがしばしば可能だ。見ず知らずの他人や不特定多数の人々にコントロールを一部でも委ねることは怖いことであり、警戒や懸念が先に立ちがちだが、実際にはそのネガティブなバイアスを裏切る形で、思っていた以上に良いことが起こることも多い。ソフトウェア開発や百科事典編纂などのオープンソース系のプロジェクトには比較的あてはまりがよい枠組みだ。

    その一つの帰結は、自分の著作物や著作権を囲い込むよりも、オープンにライセンスし、コラボレーションをしやすくするほうがよい、というものだ。同じことがプライバシーや個人情報について言えるか、というのはオープン化をめぐる難しい問いだ。一方では、自分についての情報を広く利用可能にすることで、自分が思ってもいなかったような恩恵を受けることはできる。同時に、そのような情報を利用するのは不特定多数の他人よりも国家や大企業のような大組織なのではないか、自分はそれらの組織に操作されたり、弱みを握られたりすることになるのではないか、という懸念も考えやすい。オープン化が個人のエンパワーメントと一致しているから賛同するという考え方に立てば、大組織を利する、個人と大組織の力関係を大組織に有利な方向で変えてしまうようなオープン化には賛同し難い。レコメンデーション・エンジンやターゲティング広告など、個人情報が企業によって活用され自分に関係の深い情報が届きやすくなることの是非は、まさにこうした構図で意見が対立することがある。現在の法制度では、個人情報の「第三者提供」はややハードルが高くなっているため、そのぶん個人情報は個人向けの多くの事業を一手に展開する大組織に集まりやすい、という側面も持っている。大組織を警戒する人にとっては、とりわけ大きな懸念材料をもたらしがちな制度になっているとも言える。

    情報社会の行方

    以上のような議論をストレートにウェルビーイングと結びつける場合の典型的な議論は、個人の影響力増大にも、大組織の影響力増大にも共に負の側面がつきまとっているため、それをうまく制御しなければウェルビーイングも損なわれることになる、といったものだろう。

    昨今、世界中で議論されているプラットフォーム規制を題材にこれを考えてみる。今日「プラットフォーム規制」として議論されている事柄の中には、影響力が拡大した個人の「悪い影響」をプラットフォームに規制させるためにある種の法的義務を課す、という議論と、大組織となったプラットフォームが悪い影響を与えないように、個人を保護するような形で規制する、という議論とが入り交じり、しばしば呉越同舟のような状況を作りだしている。例えばいじめや罵詈雑言、フェイクニュースの流通に対して、ソーシャルメディアや検索エンジンやクラウドプロバイダなどが介入して社会への悪影響を減じるべきだろうか。プラットフォームの介入の度合いが高ければ、違法ではない言論がプラットフォーム側の判断で削除されたり、見つけにくくなったりするという影響も予測されるが、プラットフォームが自社の利益、特定の政党や政治的立場、特定の集団に有利・不利な形で介入することこそが大きな問題であって、それを規制するべきだろうか。つまり、プラットフォームによる介入を制限するべきだろうか。

    個人や大組織の影響力が拡大することでもたらされる損得とそのバランスをどう見積もるかは、判断力を問われるところだが、筆者は今のところ、個人の活躍を後押しするようなプラットフォームに大きな期待を維持し、プラットフォームを含めた大組織による効率化やイノベーションにも期待はしつつ、大組織に対する信頼度を高めるためにも、各種の情報開示や、監視や監査を行うような専門家や市民セクターのより大きな役割を期待したいと思っている。ここで信頼度を重視する理由は、一つだけ挙げるなら個人情報の活用などに際して信頼が重要だと考えるためだ。

    強い市民セクターによって情報社会の秩序を実現するのは米国的なモデルで、国家に対する期待がより強い欧州と対照をなしているように思われる。だが、その米国ですら、業界団体や大手企業に対して専門家や市民セクターの抑止力が十分あるわけではない。日本はと考えてみると、米国のような市民セクターの強さを望むこともできないのではないか、と考える材料もある。市民セクターを支える豊富な専門家人材(技術者を含むが、米国であれば豊富な法曹人材の存在も重要な役割を果たしているように見える)、財源を提供する数々の財団、その元になっているけた外れの大富豪、その出現を可能にする経済環境など、日本にすぐ実現できない要素は数々思い浮かぶ。欧州にもこれらの要素が豊富にあるわけではないが、市民セクターの活力の重要な源泉である余暇時間が日米よりも充実しているというアドバンテージはあるようだ。

    個人の影響力が負の方向に働く現象を減らすもう一つの策として、市民としてのリテラシーや責任感が高まることが、地味ではあるが、効果が期待しやすいだろう。他に、社会学や社会心理学的な観点からは、過激派や極端なイデオロギーの台頭などの背後に、格差の拡大や将来に希望を持ちにくい層の拡大、中間的な集団(国のような大規模な集団ではなく、地域レベルの小集団やつながり、家族など)が弱体化して帰属先がなくなったことなどの要因が示唆されることがあり、筆者としてはこのような問題に対して中間的な集団を強化することで対処できる可能性にも興味を感じる。ただし、中間集団にほぼ必ず含まれることになる人間関係は悩みの種にもなりやすく、人々がどのような中間集団を求めるのか、どのような中間集団が情報社会の他の諸側面と適合性が高いのか、といった点は自明ではないようにも思われる。

    ウェルビーイングと豊かさ

    ウェルビーイングとして最も注目されることが多いのは、主観的な幸福度や生活満足度の類、その外縁にあるような快楽やフロー体験などの主観的な要素だ。所得に代表されるような経済的な豊かさは、主観的な幸福度を高める重要な要素ではあるが、それ以外にもさまざまな要素によって主観的な幸福度が左右される。良好な人間関係や健康状態など、所得とは分けて考えるほうが便利な要素も多い。

    筆者は近年、これらのどれとも違う要素としての「豊かさ」について度々考えている。これが主観的幸福度の一要素になっているという研究も最近はないわけではないが、主観的幸福度とは独立した価値を持つ社会や人生の特徴と考えることもできるように思われる。それについて述べてみたい。

    まず、情報社会ではウェルビーイングが大組織や個人によって損なわれることの懸念とは逆の懸念が考えられるように思っている。巨視的・長期的に見れば、ある程度の数の国や社会において、民主制や自由主義市場がうまく機能していくことでむしろ国家や大企業が人々の欲求をより効率よくかなえ、人に幸福感を感じさせ、快楽やフロー体験を与える方向に変化していくことも十分考えられる。大規模な社会ではどうしても個々人の個性が抑圧されるということが起こりがちで、それが批判されることもあるが、ICTの活用によって個別対応が可能になる度合いもまた増大することを考えれば、そのような個の抑圧という批判が妥当性を失う可能性も考えられる。それは基本的にはよい変化であり、経済的な豊かさや、主観的幸福度の増大ももたらすだろう。だが、そこに懸念材料もあるように思われる。

    哲学の思考実験に、ロバート・ノージックという人の考案による「経験マシン」というものがあるが、これは主観的幸福度だけを人生の評価軸にすることの問題を考える上で示唆的なものだ。粗い要約だが、そのマシンに身を委ねると、現実世界とは切り離された虚構を経験できる。その虚構の中で素晴らしい人生の経験ができる。そのようなマシンに身を委ねたいと思うだろうか。身を委ねるべきだろうか。素朴に、自分が主観的に経験することが自分の幸福度を決める全てだと考える立場に立てば、委ねないという選択肢はなさそうだ。また、少し考えてみればわかることだが、われわれは多かれ少なかれ自分をごまかしたり、美談によりかかったりして人生や社会を飾って不幸を直視することを避けているようなところもあるため、経験マシンのようなものは、良い人生や良い社会と相いれない、というふうに断じ難いところもある。では、虚構に身を委ねず、現実を生きることの価値はどこにあるのだろうか?

    比較的多くの人が共感しやすい答えは、自由や自由を行使する自主的・主体的な生き方、といった個人のあり方ではないだろうか。仮に失敗することがあるとしても、自分は何かに挑戦して、自分の人生を生きたと言えることには、何か他人にお仕着せられた人生を生きることにはない独自の価値がある、というような感覚を持つ人は稀ではないだろう。ただ、経験マシン(あるいは、本稿の文脈で言えば人の幸福度を高めることに関して高度に効果的になった大組織)に多くを委ねる場合と比べて、明らかに多くの不利益も被ることになる。その不便さに比べると、自主性や主体性はあまり問題にならないのではないかと思われることも多い。例えば現代の日本社会で、洗剤や洗濯機を使わずに洗濯板で洗濯をしよう、自分でやることには不便があっても、衣類の傷みが早かったり汚れが落ちにくかったり、非常に時間がかかったりすることがあるとしても独自の価値がある、という考え方を採用できる人は非常に稀だろう。水も水道や浄水のインフラに頼らずに、自分で雨水を集めるか川に出向くことなどで調達しよう、洗濯に使う石鹸・洗剤も市販品に頼らずに自前で、電気は自分で発電できる範囲で、......などと考えを進めていくと、「自分で生きる」こと、不便であっても自由を行使することにそれほど大きな価値が置かれているわけでもない、と思われる。

    自主性や自由とは少し違う価値として筆者が注目しているのは、自分でない存在との接触の価値だ。経験マシンに身を委ねることで「自分の望み通り」の人生(虚構の人生)を経験することになると、自分以外の他人とか、現実世界を構成する他の事物との接触は減り、世界から隔離されていると感じられるような度合いは増える。自分がこの世界を実際に生きたということは、虚構の世界を楽しく経験することでは到達できないような価値があるように思われる。それは、少し抽象的な言い方になるが、自分の制御の範囲に収まらない要素、自分にとって意外だったり、不可解だったりして、「自分と一体化していない存在」と遭遇し、それとのやりとりを生きる、ということに独自の意義を認めるということになる。独自の意義というのは、それがウェルビーイングにプラスになることもマイナスになることもあるが、どちらであっても、(少なくともある程度は)そのような遭遇ややりとりに意義を認める、というものだ。人生にとって、「快」が持つ意義を考えているのが主観的幸福度を中心とした幸福研究であるのに対し、快不快とは別に「異質性」が持つ意義がある、というのが筆者の考えていることだ、と言ってもよい。ただ、幸福という言葉・概念は多義的で、このような乱暴な整理が適切であると断言できないところはある。このような異質性もまた幸福の一種であると考えることもできるし、現にある種の人にとっては、例えば自分の人生を振り返った時の幸福度はそのような意義も織り込んだ上で感じられ、判断されるものだろう。主観的幸福度の研究上も、その時々の快不快の総和として主観的幸福度を測定する手法もあれば、ある時点で振り返っての自己評価をもって主観的幸福度を測定する手法もあるが、そういったものと結びついた主観的幸福度の多義性ともつながっているところがあるように思う。

    情報社会の遠い未来

    異質性の意義の他にもう一つ、多様性が持つ意義にも注目している。この意義は「豊かさ」という、日本人には比較的なじみのある言葉の一つの解釈としても位置付けることができる。例えば多種多様な土地へ旅行する機会を持ったり、多種多様な人や業界と接する機会を持ったりして、さまざまな驚きや知見を得た人生は、その多様性の故に意義がある、豊かである、というふうに考えることができるだろう。それがその人にとっての主観的幸福度を最大化させるような人生だったかどうかは別だが、ここでも、主観的幸福度とは別に、このような多様性故の豊かさを考えることができる。その本人がつらい人生を送ったとしても、その人生は一面では豊かではあった、と形容することもできるかもしれない(そのような本人の感じ方を軽視した人生の評価の是非は意見が分かれるところではあろうが)。

    つまり、異質な存在との遭遇に意義があるだけではなくて、さまざまな異質な存在との遭遇にも、ある種の意義がある、と言えるように思われる。豊かさという概念の中に含まれる多様性についての考え方としては、このように人が経験する(これまでの言い方では「遭遇する」)ことの意義だけでなく、単に多様なものが存在していることに意義を見いだすような要素も含まれているような気がする。多様な言語が存在すること、多様な文化や生物が存在すること、もっと卑近に、多様な郷土料理が存在することでもよい。こうした多様性がある世界は、存在のあり方として豊かであり、それを享受できるような、多様なものとの遭遇のある生は、豊かであるように思われる(度が過ぎれば混沌とした状況の中に自分を失い、主観的幸福度の点からも、多様性を認識・感受できるかどうか、という点からも、意義が薄れる可能性も考えられなくはないが)。

    このように、主観的幸福度の範囲に収まらないかもしれないような、異質性(異質な存在との遭遇)や、多様性(多様な異質な存在との遭遇)を経験することの意義から考えると、大組織が人を高度な効率性で幸福にすることは、一面では素晴らしいことでありつつも、一面では貧しい人生を増やすのではないかという懸念もないわけではない。インターネットの興味深い可能性には、当然ながら、異質な他人との遭遇や多様な他人や文化に触れる機会の拡大なども含まれているように思われる。

    ややラフで蛇足的ながら、最後に貨幣との関係で考えているインターネット社会の可能性について少し触れておきたい。インターネット社会では、個々人が自分とは縁の薄い人ともコラボレーションや集団行動をとることができ、取引ができる場合があることに、冒頭近くで触れた。不特定多数の人々とのこうした関係は、近代社会においては貨幣に媒介されるような没個性的・没人格的な関係にも特徴的だ。貨幣は全てを数値に換算してしまうが故に希薄だが、大規模な関係を効率的に営みやすくし、経済的な豊かさの増大に大きな効果を発揮する。インターネットやその上に成り立つアプリケーションやサービスは、貨幣とは少し違った可能性を持っている。インターネットや、その上に成り立つアプリケーションやサービスは、貨幣よりもより多い情報量で人間関係を取り持つ手段としても使えるもので、また、実際に貨幣の機能の一部を代替することにも使われている。こうした点から、従来ほど希薄・没個性的ではない関係を大規模に取り結ぶことも起こり、上に挙げたような意味での豊かさの向上にも貢献するところがあるのではないかとも考えている。図式化して言い換えるなら、インターネット社会を捉える上で、二つの対比の仕方がある。一つは、大組織が影響力を持ち、個々人は取り換えのきく労働者や受動的な消費者として小さな影響力しか持たない傾向にあった産業社会や大衆社会のイメージと、個々人の影響力が増大するインターネット社会との対比。もう一つは、複雑性を縮減することで大規模な社会を効率的に実現可能にした貨幣経済やその上に成り立つ希薄な人間関係、個人主義的な度合いの高い近代社会と、大規模でありながらも貨幣による媒介に比べると希薄・没個性的ではないようなインターネット社会との対比である。

    インターネット社会はこのような意味でもはや近代社会とは異なる、とまで言えるかどうかはともかく、上に述べたような異質性や多様性の観点からの豊かさを多少なりとも向上させる方向にも変化していくことは可能なのではないか、と考えている。もちろん、その逆に、人々が自分の繭の中に心地よく閉じこもり、他人とも外界とも断絶を深めていくような方向に変化していく可能性も、上に述べた通り懸念するところではあるが。

    渡辺 智暁

    国際大学GLOCOM教授・主幹研究員。Ph.D.(インディアナ大学テレコミュニケーションズ学部)。2008年よりGLOCOMで専任研究員となり、ICT政策、米国の政策議論、オープンデータなどの研究に従事。2015年より慶應義塾大学で特任研究員としてデジタルファブリケーションの産業・社会利用を推進する研究に従事。2019年より専任研究員としてGLOCOMに復帰。不特定多数の参加者に開かれていることで高い品質が達成されるウィキペディアのようなオープンな仕組みの可能性と限界について通信インフラ、データ活用、ものづくり、AIによる知の生成など様々な分野で研究してきた。