社会システム変容の研究と有識者のコラム集 コラム⑧ 法律
「ウェルビーイングと法」というテーマはお世辞にも一般的なものとはいえないが、「ウェルビーイング」を身体的・精神的・社会的に良好な状態または充足された状態であると定義した場合(1)、「社会的」なウェルビーイングの一要素として法は重要な位置を占めると考えられる。2020年に書いた「ウェルビーイングと法のデザイン」と題した拙稿(2)で、わたしは「ウェルビーイングと法」というテーマを、「ウェルビーイングのための法設計」と「法設計におけるウェルビーイング」に分けて論じた。前者の「ウェルビーイングのための法設計」は文字通りウェルビーイングを促進するための法設計であり、その一つの例としてEUのGDPRなどの個人データの取扱いの設計について書いた。後者の「法設計におけるウェルビーイング」では、現在の法設計においてそのユーザーたる市民が参加できていない状況を捉え、市民が法設計を「自分のこと」として主体的に捉えるためには何が必要なのか、ということを書いた。その後、データの取扱いに関するウェルビーイングを確保するための法設計として、ユーザーを騙す、あるいはそこまでいかなくても誤導または事業者側の都合の良い形に誘導するユーザーインターフェース及びその設計である「ダークパターン」が消費者保護の観点から問題となっている(3)。また、日本でも、データに関する基本権を憲法上の権利として位置づけるべきではないか、という議論も起こっている(4)。フィルターバブルやフェイクニュースの問題など、情報的「偏食」が問題とされるなかで、「健康的情報(インフォメーション・ヘルス)」を憲法上の権利として位置づける見解等も主張されている(5)。
日本の法令上で「幸福」という文言がどのくらい使用されているのか、ご存じだろうか(ここでは「ウェルビーイング」と「幸福」の相違は置いておく)。たった今、現行施行されている法令を検索できる「e-Gov法令検索」で、日本の憲法や法令上、「幸福」という単語が使用されているものを調べてみると、10個しか存在しない(6)。これは「福祉」で検索すると1,339個も存在するのとは対照的だ。「幸福」を定めた法令のなかには、幸福追求権を定めた憲法はもちろん、学校教育法、自衛隊法、スポーツ基本法から、最近では発足したばかりのデジタル庁の土台となっているデジタル社会形成基本法などが存在している。この少なさには様々な理由があるだろうが、国家が国民の幸福に積極的に介入すべきではないという全体主義への警戒や、個人の幸福は定義できないという価値相対主義等の観点が考えられる。
それでも、憲法が、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」、すなわち幸福追求権(憲法13条後段)を定めている。日本国憲法は、14条以下に歴史的に国家権力によって侵害されることの多かった重要な権利・自由を列挙した詳細な人権規定を置いている(いわゆる「人権カタログ」)。しかし、社会の進展に伴い、自律的な個人が人格的に生存するために不可欠と考えられる基本的な権利・自由として保護に値すると考えられる法的利益は、新しい人権として憲法上保障されるべきである。その根拠となる規定が幸福追求権であり、幸福追求権は包括的基本権として位置づけられ、個別の人権条項では保障されない権利・自由を保障するという意味で補充的に適用されるものとされている。新しい人権として主張されたものは、プライバシーの権利、環境権、日照権、静穏権、眺望権、入浜権、嫌煙権、健康権、情報権、アクセス権、平和的生存権など多数にのぼるが、最高裁が正面から認めたものはプライバシーの権利としての肖像権くらいである。
幸福追求権は、個別の基本権を包括する基本権であるが、その内容はあらゆる生活領域に関する行為の自由(一般的行為の自由)ではなく、あくまで個人の人格的生存に不可欠な利益を内容とする権利の総体を言うとされている。つまり、幸福追求権により個人の自由な行為全般が保障されるわけではなく、「自律的な個人が人格的生存に不可欠と考えられる」か否かが判断基準となっている。この判断基準または価値観が、実質的に憲法が考える「幸福」の定義となっていると評価できる。「人格的生存」には明確な定義や解釈があるわけではないが、「各個人がそれぞれの考え方に従って懸命に生きるということ」とか、「各個人が何が『善き生』なのかを判断し、『善き生』を求める営みを続けること」、さらには「人間の一人ひとりが『自らの生の作者である』こと」等とされている(7)。これが現在の憲法、そして日本の法令を支える幸福観と言えるが、昨今のウェルビーイング概念や研究の進展に合わせて、この幸福観のアップデートが必要かどうかを検討する必要はあるだろう。
ウェルビーイングが重視される社会では、法のあり方はどのように変わるのだろうか? 渡邊・ドミニク[2020]は、これまでのウェルビーイング概念が個人主義的な社会観を背景に個人(「わたし」)の心の充足をテーマとして「競争」的であったのに対し、日本・東アジア的な個を集産した「わたしたち」のウェルビーイングを「共創」的に「も」捉えていくことが必要であることを説いている。
現在の憲法や法令の幸福観が個人の人格的生存を基点としていることはすでに述べたが、このような観点による人権の「カタログ化」が、逆に多様・多元的な価値観を有する個人や個人のあつまりの「自由」や権利、さらに言えば個人のなかにある「分人」的な価値観をむしろ阻害してしまっているのではないか、人格的生存という価値から離れた「自由」一般に対する憲法上の権利を認めればよいではないか、という考えがありえる(このような捉え方は「一般的自由説」と呼ばれ、現在の通説である「人格的利益説」と対置される(8))。つまり、ウェルビーイング概念の変容は、これまでの「自由」概念や人権概念を変容させる可能性を含んでいる。
また、哲学者ジョン・サールは、ルールを統制的ルール(regulative rule)と構成的ルール(constitutive rule)に区別した。この区別でいえば、法は幸福のための最低限の諸条件を人権や法令の形で統制的に、そして消極的な形で規定してきており、このような統制的ルールは社会秩序を維持していくうえで、法やルールの重要な機能であり続けるであろう。一方で、企業や人類の欲望のままに任せてきたことによる気候問題など資本主義の限界が指摘されるなかで、ウェルビーイングのための構成的ルールが求められてきている機運も感じる。例えば、サステナビリティに関する目標を定めたSDGsはその代表的なものと言えるし(SDGsにおいてもゴール3「GOOD HEALTH AND WELL-BEING」という形で、ウェルビーイングは重要な達成目標の一つとして挙げられている)、EUでは、民間の銀行や投資信託会社等に自社のファンドがどの程度ESG等のサステナビリティに配慮しているかの開示を求めるルール(SFDR)等のルールづくりを積極的に進めている。このように、欧米を中心に、構成的ルールを活用したウェルビーイングの促進政策が盛んになることが予想される。
ウェルビーイング概念が共創的に変容してくれば、法設計もまた共創的になっていくことが予想される。しかしながら、現状の日本の法設計を含む政策への市民参加は共創的とは程遠い状態である。「Democracy Perception Index 2018」という調査では、「自分たちの声が政策において重視されていると感じるか」という質問に対して「全く思わない」と「ほとんど感じない」の回答率が、調査対象とする50カ国中、日本が最下位という残念な結果になっている(9)。また、Edelmanが毎年行っている「Trust Barometer」の「政府に対する信頼」の調査においても、対象となっている27カ国中22位と低い水準に留まっている(10)。拙稿「ウェルビーイングと法のデザイン」(2020)では、法設計におけるウェルビーイングを高めるためのポイントとして、1)ルール形成過程が透明化されていること、2)ルール形成に参加機会があること、3)ルールの見直しが可能であること等を指摘している。このような法設計の共創を情報技術によってサポートするバルセロナ発のデジタル民主主義プラットフォーム「Decidim」を紹介したが、法設計におけるデジタル技術の利活用はまだ萌芽期であり、法設計への参加機会の拡張のほかにも、法設計資源のデータ化・透明化等、様々な可能性が潜在している。上記のESGに関するルール形成が欧米主導になっていることにも顕著なように、「誰も取り残さない」法設計・ルール形成というのは理想的ではあるが、現実には非常に難しい。法設計・ルール形成をこれまでのトップダウンかつ密室型からボトムアップかつオープン・マルチステークホルダー型に変更していくためには、まさにわたしたちのウェルビーイング概念をどれだけ競争的なものから共創的なものへと変質させられるかにかかっているのではないだろうか。
水野 祐
法律家。弁護士(シティライツ法律事務所)。九州大学GIC客員教授。Creative Commons Japan理事。Arts and Law理事。グッドデザイン賞審査員。note株式会社などの社外役員。テック、クリエイティブ、都市・地域活性化分野のスタートアップから大企業、公的機関まで、新規事業、経営戦略等に関するハンズオンのリーガルサービスを提供している。著作に『法のデザイン −創造性とイノベーションは法によって加速する』、共著に『オープンデザイン参加と共創から生まれる「つくりかたの未来」』など。