更新日:2022/09/13
「文理共創対談 テーマ② アフターデジタル時代の〈わたし〉(1/4)」から
鼎談者: 池上英子氏(社会学者)、出口康夫氏(哲学者)、永徳真一郎(NTT デジタルツインコンピューティング研究センタ)
NTT デジタルツインコンピューティング研究センタ


池上 ちなみに、アバターという言葉は元々インドの言葉で、「顕現」とか「分身」「権現」などと訳されます。アメリカの美術館などでは、日本の曼荼羅(まんだら)展示の解説に、分身仏を指して「このアバターは」と書いてあります。この言葉をデジタルの世界の分身という意味に使うようになったのは、非常に意味深い翻訳だったと思います。人の個性を、individuality、つまり「分けられないもの」と考える西洋的な自己の考えは、分けられない究極の自己の追究に駆り立てますが、それは玉ねぎの皮を剥くようなものではないでしょうか。一方で、アバター的な分身主義は、必ずしも日本固有のものだとは思いません。むしろ普遍的な、人間の脳の構造と働きから生まれてきたものだと考えています。
現代の仮想空間におけるアバターの研究を始めた当初、私は、障がいを持つ方や、自分を変えたいという方たちのグループなどのバーチャルな集いの場を探し出して、そのグループの研究をしていました。そこから、徐々に自閉症スペクトラムの方々のグループにフォーカスするようになり、大人の自閉症スペクトラムの方たちの主観世界、経験世界を、自分自身もアバターになりバーチャル・エスノグラフィーを長年続けました。これは深い学びの経験でした。
調査を重ねるにつれ、自閉症スペクトラムを障がいとして捉えるのではなく、むしろ人間のDiverse Intelligences――これはわざと"s"をくっつけて複数形にしていますが――のあらわれとして捉えるべきなのではないかと思うようになりました。誰もがちょっと変だし、知性には癖がありますからね。われわれは、知性の社会的現れ方、アウトプットだけを見て判断しがちだけれども、実はインプットを見ることも同じくらい大事だと感じるようになりました。そして、たまたまそれぞれの得意な認知の方法や表現方法に合ったメディアに出会うと、定型発達ではない方たちのなかから非常に面白いもの創造的なものが出てくるのだ、と。たとえばある自閉症の男性は、仮想世界では5人のアバターを使いこなしながら自分の脳内世界を視覚的に表す美しき「迷宮」をつくりあげていました。彼は慎ましく暮らす労働者です。歴史的に文明の発達に貢献した人というのは、恐らくかなり変わった脳内ネットワークを持っている人たちでたまたま認知特性の強みと環境がマッチした人たちだったのだろうと思います。
こういう研究を通して、「私」というものは、さまざまな分身をそれぞれに発達させながら、全体としての自分というのはそのプロセスのなかで育っていくものであり、何か実体的な自己があるというよりも、育っていく自己がある、と考えるようになりました。自己の現れ方、あるいは育て方は、場との関係を切り離しては考えられないものであってと私は思っています。
私は、ニューヨークというダイバーシティそのものの街で暮らしています。完全に共感できないかもしれない他者の視点をいかに尊重しつつ繁栄できるのか、自分の外の社会的ダイバーシティと内なるダイバーシティの複雑微妙な関係をどう構築するのか、いつも自らに問わざるをえない環境です。アバター主義的な生き方というのは、もしかすると人々がもう少し楽に生きる助けになるかもしれない、もう少し風通しのいい社会を実現できる契機になるかもしれない、などと考えているところです。
出口 「場」と「ネットワーク」というお話、非常に面白いですね。これらは、「私」のあり方を決定する2つの独立のパラメーター(変数)だと言えるのではないでしょうか。もしそうだとしたら、「場」と「ネットワーク」なしには、そもそも「私」なるものは存在しえないことになります。また、どのような「場」にいるのか、どのような「ネットワーク」を持っているかで、「私」のあり方が大きく変わることにもなります。
また池上さんは「西洋的な自己の追究は玉ねぎの皮を剥くようなもの」ともおっしゃいました。私も同感です。「私」は通常、さまざまな「我々」の一員として生活しています。西洋の個人主義的な自己観では、これらの「我々」のコアには、常に、「我々」なしにも存在しうる「私」が控えているとされます。言い換えると、「我々」とは服のように着脱可能なもので、衣装を全部脱ぐと、何も着ていない「裸の私」が現れるというわけです。
一方、私は、「私」を支えているアフォーダーの集まりとしての「われわれ」は、着脱不可能なものであって、そこから逃れられないもの、英語で言えば'inescapable'なものだと考えています。'inescapable'は日本語では通常「不可避」と訳されますが、中国では近年「不可逃脱」という訳語も使われているそうで、私もそれを採用しています。つまり「われわれ」とは「私」にとって不可逃脱的な存在であり、「われわれ」なしに存在するとされる裸の私なるものはイリュージョンだと考えているのです。
このような考えにもとづいて、私としては、池上さんがおっしゃる「場」と「ネットワーク」を2重二重の不可逃脱的な「われわれ」ではないかと受け取りましたが、そういう理解でよろしいでしょうか?
池上 自己の外側に到達できない部分があって、それは着脱する、洋服を取り替えられるようなものがあって、そのコアにnakedな真の自己があるという、いわば西洋哲学的な考え方と、私が提唱する自己とは違うということですね。それは非常に微妙なラインをおっしゃっていますが、共感するところです。ただ一つ言えば、生まれ落ちたときから赤ちゃんにも自己意識はあるわけです。母親と自分、すなわち他者を知るということがなければ、自己意識も育ちません。自己意識はある意味、最初から他者との関係性のなかでしか生まれないものです。
ですから、着脱可能なもののなかに真のようなコアがあるというのは、幻想なのですが、その神話自体が実体的なポリティカルな力を持つこともあります。ただその幻想なしに今の社会は制度的に成立できないと思います。たとえば、過去に犯罪を起こした人が、かつての自分と今の自分は、まったく別の生物学的存在だと認めると、社会は成り立ちませんよね。社会的には一つに絞れない自己があり、また常に変わっていく自己であるけれども、ただ社会的には自己の一貫性をある程度措定しないと、責任がとれない。しかしそれが社会制度としてしかたがないけれども、その角度からだけ「自己」というもののリアルを見ることはできません。
出口 「我々」なしに存在する裸の私が幻想だと言っても、一定の責任を負った私が存在しないというわけではありません。常になんらかの「われわれ」という衣装をまとった、「われわれ」を構成する一エージェントとしての「わたし」は存在し続けますし、「われわれ」の行いに対する責任を担い続けることになります。そもそも「わたし」がメンバーに入っていないと、「われわれ」は「われわれ」ではなく、「あなたたち」や「彼ら」になってしまいます。その意味で、「われわれ」にとっても「わたし」は不可逃脱的な存在なのです。
ところで、ネットワークも場も、絶対的なもの、固定的なものではありません。どんどん変わっていく。場合によってはなくなったり、再び生じたりもする。つまり、それが持つ性質は、いわばその都度性であったり、刹那性であったりする、出来事性といえるかもしれません。
この出来事性は、いろいろな場で、いろいろなネットワークが生成消滅する流動の現場においてより際立つことになります。複数のネットワークが集まって、新たに大きなネットワークがつくられたり、それがまた破られたり、別の場で新たに結び付いていくといった流動的な生成変化こそ「出来事」と呼べるのではないでしょうか。
こう考えると、ある一定の場で、一定のネットワークが成立することで生まれる自己とは、「出来事としての自己」と捉えることができるのではないかと思います。自己とはなんらかの実体や、「もの」ではなく、流動性やその都度性を持った、時間空間的に多かれ少なかれ限られた「出来事」や「ハプニング」に他ならない。このような考えは、「われわれとしての自己」にも通ずるものです。
また、江戸時代では、いろいろな場やネットワークから、その都度立ち現れてくる自己のうち、どれがオリジナルでどれがコピーか、どれが中心でどれが周縁か、必ずしも明確ではなかったと理解いたしました。それは、自己のアイデンティティが一箇所に定まらず、複数の場やネットワークの上に散らばり、分散されている状況とも考えられます。このような理解でよろしいでしょうか。
池上 私も、場ごとに自己が立ち現れるとは考えていますが、場やネットワークが常に変化する刹那性を持ちつつも、ヒトはさまざまなネットワークが交差する場である「パブリック圏」を日々切り替えながら時を旅しています。その経路は自己の歴史だと私は捉えています。昔の人は「三つ子の魂」というような言い方で何となくその辺りのことを直感的に把握していたわけですが、育ち方も含めて、誰と会い、どういう場所にいたか、ということが今の自己を形づくっています。つまり、潜在的であっても経路的な記憶として、その人の自己形成、自分というもの意識に当然影響を与えているはずです。刹那的であっても、大きな歴史のなかの自己形成の過程、自己の歴史は重要であると思っています。
これは、コピーと本歌取りという、どれがコピーで、どれが元かという話とちょっと関係してくると思います。出来上がっていくものとしての自分はそのたびごとに現れるけれど、それぞれの人にとっての社会的な位置によって、辿る経路は違います。たとえば子どもの時にどんな友達と出会うかも社会的なポジションに影響されます。
パブリック圏というのは、複数のパブリック圏に相互関係があり、力関係を含むヒエラルキーがあるものだと考えています。これは社会哲学者のハーバーマスがいう「公共圏」とは異なる考え方で、単一のパブリックでもないし、民主主義的なディベートをする場とも違う。どこのパブリック圏にアクセスできるかは、その人の社会経済的なポジションに当然影響されるもので、単に刹那的に自由に選択しているのじゃないと思うんです。一方で、どんなパブリック圏にオーソリティーがあるかという話と、どこのパブリック圏に参加するのが面白いというのは、また全然違う話だと思います。学校の授業で習うことより、放課後の遊びで仲間からの学びのほうが圧倒的に面白かったりするものですから。
人間は面白いほうに集まって、その面白いところから新しい文化が生まれてくる。それは周縁から出てくることが多い。いまはインターネットを介して周縁とセンターの垣根が破れさまざまなものが出来上がりつつありますが、面白くないものはたとえ実用的であっても、そこから魅力的な文化は生まれてこないでしょう。重要なのは、どこにどういうふうに面白いパブリック圏をつくり、または見い出し、それを多くの人々にオープンに開いていくかというような、「場の創出」のあり方だと思います。自己観も大事で、もちろんそれに関係するけれど、社会を変革しようとしたら、むしろ面白い場を創出するということのほうを、私は重視しています。