更新日:2022/09/13

文理共創対談 テーマ② アフターデジタル時代の〈わたし〉(1/4)NTT デジタルツインコンピューティング研究センタ

   

鼎談者: 池上英子氏(社会学者)、出口康夫氏(哲学者)、永徳真一郎(NTT デジタルツインコンピューティング研究センタ)

NTT デジタルツインコンピューティング研究センタ


「面白い!」がつなぐ、仮想世界のパブリック圏の可能性


池上英子 (いけがみ・えいこ)
ニューヨークを拠点とする社会学者。ニュー・スクール大学大学院社会学部教授、同大学社会学部学部長歴任。ハーバード大学社会学部博士課程、イエール大学大学院社会学部准教授、プリンストン高等研究所研究員などをへて現職。歴史社会学者として、日本社会を比較文明的ネットワーク論的に見直す仕事で知られる。近年は仮想社会の研究にも力を入れ、感じかた見かたのマイノリティとしての自閉症スペクトラムの人々との仮想空間での交流を描いた『ハイパーワールド:共感しあう自閉症アバターたち』(NTT出版)で ニューロダイバーシティ(神経構造の多様化が、社会全体にとってプラスになる)との考え方を紹介、NHK・ETVで2度にわたり特集化された。著書に『名誉と順応──サムライ精神の歴史社会学』NTT 出版(原著・The Taming of the Samurai: Honorific Individualism and the Making of Modern Japan, ハーバード大学出版)『美と礼節の絆──日本における交際文化の政治的起源』NTT出版、(原著Bonds of Civility: Political Origins of Japanese Culture、ケンブリッジ大学出版、全米アジア学会ジョン・W・ホール著作賞、全米社会学会ベスト文化社会学賞、政治社会学卓越著作賞、The Mirra Komarovsky Book Award賞)は、世界各国で出版。近著に「自閉症という知性」(NHK新書)「江戸とアバター:私たちの内なるダイバーシティ」共著:田中優子、朝日新書)など。

NTT研究所では、仮想空間にもう一つの身体と心を再現する「人のデジタルツイン」の開発に伴い、京都大学・出口康夫教授(哲学)とともに、社会的・倫理的課題を考える共同研究を進めています。すべての社会活動がオンラインにつながる「アフターデジタル」の世界では、オンラインとオフラインの主従が逆転し、これまで近代社会が前提としてきた個人主義的な自己観では捉えきれないさまざまな「私」の出現が予想されます。

第2回となる本稿では、「ニューロダイバーシティと人のデジタルツイン」に関してNTT 研究所との共同研究に取り組んでいる歴史社会学者・池上英子教授(ニュー・スクール大学)をお迎えして、両共同研究の接点として、アフターデジタル時代の自己観について、議論を深めます。池上先生は、仮想空間での自閉症スペクトラム当事者の交流を描いたエスノグラフィーや、江戸芸能文化における人々の自由な交流をネットワーク論的観点から捉えた著作を通じて、"リアル"な世界とは異なる「場」に現れる複層的な「わたし」の在りようとその豊かさについて考察してこられました。アフターデジタル時代の新たな自己観とはどのようなものになるのか、これまでの研究をふまえてご意見を伺います。

鼎談者:池上英子 教授(ニュー・スクール大学(ニューヨーク))
    出口康夫 教授(京都大学)
    永徳真一郎(NTTデジタルツインコンピューティング研究センタ)

1 江戸とアバター

―〈場〉ごとに生まれるアイデンティティ

永徳 私は、NTTデジタルツインコンピューティングセンタの研究員をしています。デジタルツインとは、フィジカル空間(現実の世界)の事象をサイバー空間上に再現し、モニタリングやシミュレーションに役立てる取り組みです。デジタルツインの対象は従来、プラントやシステムなどのモノが主流でしたが、NTTでは、人間そのもののデジタルツインにも取り組み、さらには、人とモノのデジタルツインを自由に掛け合わせて新たな価値を創出する計算パラダイムとする構想を進めています(1)

「私のデジタルツイン」をつくるときに、その前提として、そもそも私とは何かという問題に突き当たります。この問いについて、現在、出口先生と共同研究を進めています。このなかで、「われわれとしての自己」という東洋的自己観や「〈わたし〉のかけがえのなさとは何か」といった哲学的観点から、「私」とは何かについて問い直しています。そしてそれをふまえて、人のデジタルツインやそれをとりまく環境の望ましい姿を考えています。

池上先生は、デジタル世界における「アバター」を介したコミュニケーションについて研究されていますが、これまでNTTとも研究協力を深めておられます。アバターはある意味、人間のデジタルツインの一つと言うこともできるように思います。特に、コロナ禍において、リアルに人と会えない状況が続くなかで、デジタル世界でのコミュニケーションの重要性が増しています。そこで本日は、池上先生の研究背景、問題意識を伺いたいと考えた次第です。

池上 デジタルツインに関しては、これまで1対1、特にモノとモノのツインが考えられてきましたが、NTTでは人間の代理としてのデジタルツインの可能性について考えていらっしゃるのですね。私はアバターを専門としておりますので、人間の代理としてのアバターや、アバターにおける自己のあり様、そして、現実世界とほぼ「パラレル」に立ち上がる未来のデジタル世界「ミラーワールド(鏡の世界)」といったものに、当然、関心を持ってきました。

議論に入る前に、私の研究の関心についてお話ししたいと思います。

まず、人間の営みというのは、ニューロサイエンス(脳科学・神経科学)に関連づけて考えることができます。人間の脳のなかでは、各領域(ローカル)がそれぞれ機能を担っていて、それらがネットワークでつながることによって情報が処理されています。つまり脳というのは、ローカルネットワークの動的複合体です。一人ひとりが異なるネットワークのパターンとしての「個性」を、日々刻々と育てていきます。

翻って、私たちをとりまく「環境」、それは物質や生物世界だけでなく、時代や文化といったものを含めた一人ひとりが接触する社会環境も、刻一刻と変化するネットワークで成り立つ世界の複合体と言えます。われわれの内なるネットワークと外なるネットワークがお互いふれ合い交差し続けるなかで変化・発展し続ける個人――そうしたことを念頭に、私は「ネットワーク化された自己の可視化」(Visualizing the Networked Self)などをテーマに研究してきました。

もちろんネットワーク化した自己というのは、別に今に始まったことではありません。でもそんな内なる自己の可視化というのは、デジタル時代に生きる現代人の特権でしょう。というのも、かつて、自らの内にある見えない世界を外に出し、表現し他者と効果的に共有することできるのは、才能のあるアーティストや文学者に限られていました。現代ではデジタル技術を使って、比較的容易に、それぞれが感じている、触れているまた見えているさまざまな自分の分身をユニークなものとして可視化し、表現しながら人とコミュニケーションができる時代になってきました。その点が非常に面白いと思っています。

私は、近年、江戸と現代の仮想世界という2つのフィールドを研究の対象にしていますが、このときに採用しているのが社会学のアプローチです。社会学的な知の特徴というのは、観察を通じて哲学的な考察をすることにあります。そうした意味では、数学のようにロジックのみで完結するというよりも、物理学的な営みに近いと言えるかもしれません。つまり、何か観察の対象があって、そこからのフィードバックをふまえてモデルをつくっていくということ。当然、経験主義(empiricism)とは切り離せないわけで、私の場合は、それが歴史であり、仮想世界のアバターであったということです。

 もう一つ社会学的な知の特徴をあげるとすれば、人と人の関係性の間にある力関係「パワーの強弱」に非常に敏感な点です。たとえば経済的困窮や複雑な家庭環境に育った子どもたちは、成績云々以前に、何かに向かって努力するといった態度や動機自体を養うことが難しかったりします。デジタルの世界でも、ITにアクセスすること自体が難しかったり、持っているデータの量が違ったりすることで、人々の間にどういうアンバランスが生じるのか、ということに着目しています。なかでもいま、私が特に興味を持っているのが、人々の感じ方や見え方、得意な認知の方法にも多数派と少数派(定型発達と非定型発達など)があって、それによってデジタルの使い方が違ってくるということです。つまりインテリジェンスの形が多数派でない人々にとって使いやすく、またその知覚特性、認知特性を十分活かすような次世代のデジタルの形がありうるのではないか、と思っています。

次に、2つの視点ということで、2つのビジュアルを示してみました。


1枚目


重要文化財 歌舞伎図巻 二巻のうち下巻(部分)江戸時代 17世紀 徳川美術館蔵
※ 収蔵品の様子は 徳川美術館ホームページ から 「主な収蔵品」>「絵画」にアクセスいただき 「歌舞伎図巻 二巻の内 下巻」をご覧ください。

2枚目

fig02.jpg
池上英子教授提供

1枚目は、1605年、江戸時代初期の絵です。場所は京都の四条河原、女歌舞伎に興じる人々が描かれています(「歌舞伎図巻」)。老若男女の観客、絵の端には外国人までいて、貴賤を問わずパフォーマンスに没入しています。舞台の上には采女という人気の女役者が最新ファッションに身を包み茶屋遊びのプレイボーイを演じています。胸元にひかる十字架と長い太刀は、当時の街を闊歩していたかぶき者の出立ち。まるで現代のゲームの世界のヒーローアバターです。江戸時代の夢、仮想世界と言ってもいいでしょう。そんな歴史上のバーチャルの世界を研究していた私は、今から15年ほど前に、当時メタバースとして有名だったセカンドライフを研究するようになりました。2枚目は「セカンドライフ」*のなかにある私の研究所です。白い服を着た女性が、私のアバターです。江戸とアバターのパラレルワールドはこれに限らないのですが、まず私がこの2つの視点を持っていることに、ちょっと心に留めていただいて、その上で創発特性としての文化とアイデンティティについて考えてみたいと思います。

実は、江戸時代には、さまざまな分身的自己、つまりアバターになれる、いろいろな装置・場があったのです。1枚目の絵には、老若男女さまざまな観客が描かれていますが、身なりから分かるようにそれぞれいろいろな社会的な地位についていたはずです。でもその一人ひとりは、その瞬間は、舞台上の共通のバーチャル「仮想」の世界に飛んでいます。 中世以来「河原」はこの世の統制から外れた無縁の地でもありましたから、仮想の世界にはピッタリです。

江戸の社会秩序は、表向きは身分や住む村や町ごとの「タテの社会」に厳密に分割統治されていたというイメージがあります。実はそのウラに融通無碍な別の世界が広がっていました。歌舞伎の世界もそんな「カウンターカルチャー」で、これは蠱惑的な悪所でもあり、取り締まりの対象でもありました。ただそのほかにもオモテの世界を侵蝕しかねないほど広範なネットワークはたくさんあって、そのうち重要なのが、俳諧などの趣味の世界です。この時代、ちょっとした文化人なら、10ぐらい別の名前を持っているのが当たり前だったのです。芸名・俳名を持つといった江戸的儀礼装置に守られながら、隠れ家的な自由な「ヨコのつながりの場」が存在していました。

そうしたヨコのつながりによってコミュニケーションが起こる場、多様な自己観が育つような場が江戸にはあって、それを私は隠れ家的な「パブリック圏(publics)」と呼んでいます。私の言う「パブリック圏」とは、ネットワークが交差し、さまざまな個人がそこで出会うことで新しいアイデンティティが形成されるコミュニケーションの場、と定義づけられます。

この考察の背景には、複雑系ネットワーク理論と、歴史の構造分析があります。つまり、静的な分析ではなくて、ダイナミックプロセスとして、江戸時代の社会のあり様を理解したいという問題意識がありました。そもそも、「イスラム文化では〜」とか、「日本人は本来〜」といったように、それぞれのアイデンティティを固定した、実在的なものとして捉えるのでなく、動態的に捉えるとはどういうことなのか、どうすればいいのか、ということが念頭にあったということです。

人間のなかには、認知的、社会的、シンボル的なネットワークス群が渦巻いています。すなわち、その時々、置かれている状況によってどういう自分なのかが異なるわけです。知的な会合に参加している自分なのか、家族のなかにいる自分なのか、あるいは、その両方に飽きてアバターを使ってゲームをやっている自分なのか――。自分のなかにもダイバーシティがある。生物の進化にとって環境の多様性が大事なように、人間をとりまくさまざまな「環境」も多様です。いろいろな自己が顕現する可能性が広がっているのではないでしょうか。

冒頭にお話ししたように、脳内にはローカライズされたネットワークが複数あり、それぞれ機能がある程度分かれています。そして、そのつながり方は複雑でその現れ方は人によってかなり異なっています。さらに人は動きますからね。多様な社会・環境世界を刻々と経験していきます。静的行動分析では捉えられないネットワークが交差する場として、多様な「環境」と「個人」が切り結ぶ場として「パブリック圏」を考える必要があるということでしょう。その場から立ち上がる自己意識、アイデンティティは、単に環境に影響されるという受け身でなく、そこに何か新しいものが立ち上がっていくという「創発特性」を持つものだと思います。

社会的人間観も、人格とか個性というものは首尾一貫した実在だという考え方は、神話にすぎないんじゃないでしょうか。私は最近、近著「江戸とアバター」(2020:朝日新書)のなかで、分身的人間観として「アバター主義」と言う生き方を提唱しているのですが、これは単に自分のなかに複数の「アバター」がいる、というだけではありません。「私」というものの世界のなかでの成長のあり方が、他者や環境と「相互依存的」に生まれ、かつ「発展経路依存的」に発達すると言っているのです。つまり私たちが「時間」を生き旅するなかで他者や環境と交差するなかで生起する――その旅路の記憶自体が、自分というものを形成しているということです。

ここで重要なのは、パブリック圏とは、変化へのスイッチの場でもある、という点です。たとえば、人の話を聞いているときに、自分の考えをいったん無にしないと、なかなか頭に入ってきません。ところが、頭を切り替えることで、別の考えが入ってきて、さらに新たな思考につながるということはよくあることでしょう。同じように、パブリック圏では、自分が引きずってきた社会的・認知的ネットワークの関係が一時的に中断され、そのときに新しい自分が開いてくる可能性があります。つまり、それぞれがパブリック圏を切り替えながら、その場に合った自分がその都度ごとに立ち現れてくる。いろいろな場をスイッチしながら、自己を形成していくのです。その際、元の自分はなくなったわけではなく、存在はするけれども、一時的に潜めた、と捉えることができます。パブリック圏は個人だけでなく、社会の変革が起こる場所でもあります。デジタルプラットフォームを創る側の人は、パブリック圏を創出することによって社会に変化を起こすことができる。

ちなみにこうした自己の複層的かつ動態的な立ち現れ方は、別に日本に限ったことではないし、アメリカでも、ヨーロッパでも見ることができると思います。ただ複数のアイデンティティを持つこと、それを動態的に捉える視点は、仏教の「空」や「縁起」の思想などに見られるように比較的、理解しやすい伝統が日本にはあったということだと思います。これは文化装置の違いと言っていいでしょう。

前段が長くなりましたが、アイデンティティ形成の場を現代に求めるなかで、私は仮想空間におけるアバターと出会い、インターネットを介したデジタルの世界の研究に注力することになりました。

セカンドライフ 米国のリンデンラボ社が提供する3D CG で構成されたインターネット上の仮想空間。そのサービスの名前。小規模な都市で構成され、参加者は自分の好きな分身(アバター)となって、チャットによる交流、イベント、独自の通貨を用いた買物やビジネスなど、現実の世界とは異なる生活を送ることができる。2003年にサービス開始(日本版 2007年)、一時は100万のユーザーの参加があり、大きな注目を集めた。セカンドライフ上での近年の人々の交流については池上氏の著作『ハイパーワールド:共感しあう自閉症アバターたち』(NTT出版)にくわしい。

関連するコンテンツ