更新日:2022/01/28
ゲスト:松村圭一郎氏(文化人類学者)
聞き手:出口康夫氏(哲学者)・NTT コミュニケーション科学基礎研究所 渡邊淳司、村田藍子
NTT コミュニケーション科学基礎研究所

ゲスト略歴:松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)=1975年、熊本生まれ。文化人類学者。岡山大学文学部准教授。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。エチオピアの農村や中東の都市でのフィールドワークによって富の所有と分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎなどをテーマに「わたし」と「わたしたち」の関係性を考察。著書・編著に『所有と分配の人類学』世界思想社、2008年、第37回澁澤賞)『うしろめたさの人類学』(ミシマ社、2017年、第72回毎日出版文化賞)など。当たり前を疑う文化人類学の思考法を一般の人々に伝える『文化人類学の思考法』(編著、世界思想社)、『はみだしの人類学―ともに生きる方法』(学びのきほんシリーズ、NHK出版、2020年)が好評。
出口 私が「われわれとしての自己」を提唱することでめざしているのは、東アジアの思想伝統を踏まえた自己観を、現代哲学のボキャブラリーを使い、その地平の上で再展開することなのですが、このような営みは、先ほど松村先生がおっしゃった文化相対性、より正確に言えば文化多層性の問題に深く関わっています。多くの非西洋圏の哲学者は、私のように、西洋哲学の教育を受けるわけですが、一方で、たとえば自分の身体や対人関係に関する感覚のレベルでは、西洋とは異なった価値観が息づいていることを意識せざるをえない場面も経験します。そのような事情を反映し、たとえばアジアでは、京都学派(註1)や中国の現代新儒家(註2)や近現代インド哲学(註3)に代表されるように、仏教や儒教やインド思想といった自分たちの文化に根ざした知的リソースを掘り起こし、それを西洋哲学の枠組みのなかで再構築することで、新たな哲学的オルタナティブ(代替案)を提案するという運動も起こりました。このような知的運動では、西洋的な思考スタイルとアジア的な直観が複雑に混じり合い、いくつもの層をなして積み重なっているのが見てとれます。このような哲学を私は、文化人類学でも使われる「クレオール(言語や文化的な混交のこと)」という言葉を用いて「クレオール哲学」と呼んでいます。私自身、自分のことをアジアのクレオール哲学者であると思っていますが、このような哲学におけるアジアン・クレオール運動を通じて、「自己」や「われわれ」や「わたし」をも含めた価値語をめぐるグローバルなステージにおける議論のボキャブラリーをより豊かにしていきたいと考えています。
そこでお聞きしたいのは、文化人類学では、このような文化的多様性、多層性ないしはクレオール性といった観点から、たとえば「私」という概念をどう捉えているかです。
松村 出口先生が提唱されている「われわれとしての自己」という概念は、私が書いた『はみだしの人類学』のなかの言葉で言うと、individual(インディヴィジュアル)とdividual(ディヴィジュアル)に重なる議論かなと思いました。個人というのが切り離された、ばらばらな個として存在するという自己観と、個人のなかにいろんな要素があって、それらが状況や相手によって引き出されるものとしてあるという自己観。individual を日本語で「個人」と訳すのに対して、dividualは「分人(ぶんじん)」と訳されたりもします。
この2つの自己観を人類学もいろいろ使い分けてきました。たとえば、メラネシアとか太平洋地域の民族には西洋のindividual とは異なるdividualな自己観がある、とか。でも、それも文化相対主義的な言い方です。西洋の自己観がindividualで、メラネシアの島々の自己観はdividualだ、と。現代人類学のなかでは、こういう語り方をどう乗り越えるかということが課題になってきました。
今、どういうふうに私たち人類学者が物事を見ようとしているかというと、その2つの自己観が必ずしも、こちらの文化圏にはindividualとしての自己観があって、こちらにはdividualとしての個人観があると言うのではなく、その2つのロジックはいろんな社会で、実は併存しているのではないか、と考えるんです。西洋人がみんなばらばらに切り離された個人としていつも生きているわけではなくて、ある場面では、「われわれとしての自己」のような自己観も表出される場面があるのではないか、と。
日本でも、日本人は協調的で、個性よりも集団での振る舞いを重視するといった言い方がされますよね。駅のホームで電車を待つときにちゃんと整列するといったように。他方、たとえば街並みを比較すると、ヨーロッパは統一感があるのに、日本はビルの高さもデザインもばらばらです。その場面ではまとまりも協調性もない個人が表出されているとも言える。そこで、人類学では、「自己観の配置がずれている」と捉えようとします。ある社会にはAというロジックがあって、別の社会にはBというロジックがあるというよりも、A、Bというロジックは、それぞれの社会で配置のされ方が違っていて、どういう要素と結びつくことで表れるかが違うと考えるのです。
つまり人類学では、文化ごとに自己のあり方が違うというよりは、状況によって引き出される私が違うと考えます。冒頭の質問票の話に戻れば、どんな状況で、どういう立場で答えるかによって質問に対する答えが変わるのは、私たちの行為が一貫したロジックで常に編成されているわけではないからです。場面ごとのさまざまな論理の現れ方が、単純に自然環境といった物理的環境だけではなく、その周りの人との関係とか、いろいろな要素によって引き出されていくと捉えるのが、今の人類学における文化の相対性との向き合い方です。つまり、どのようにひとつの社会や集団のなかに異なるロジックが配置されているのかを探るのが、文化人類学の営みと言えます。
村田 社会におけるロジックを発見するということが、文化人類学の最近の営みということですが、人によって、それぞれ注目する情報やその捉え方が異なるわけですよね。生身の人間であり、いわば主観的な存在である文化人類学者が、対象の内部に入るからこそ見えてくるものは何でしょうか?
松村 一人の主観をもった存在として調査をしていると、「全然客観的じゃないですね」と言われることもありますが、人類学では、主観とは別のところに純粋な神の視点のような客観的視点があって、そちらのほうがよりよいとは考えません。
たとえば私がエチオピアの村で生活していると、日本の主観のまま一緒に生活しようとすると苦しいんですね。私が一人で本を読んでいると、「みんなのところに来なよ」と言われてしまう。放っておけないというか、「一人でいるのはよくない」「常にみんなのところにいろ」と言われるのです。だから、プライベートな空間がなくてしんどい。けれども、それが自分の主観を問う機会にもなるのです。「なぜ日本だと私は一人の時間や空間を必要としているんだろうか」、と。
そう問い返していくと、「彼らから見ると、一人で部屋にこもって本を読んでいるのは、おかしい行為なんだ」というのが分かるんです。そうすると、私もそこで楽になる。つまり、主観をもった存在として他者に関わるけれど、その主観のなかにとどまっていたら、エチオピアの村の暮らしも、その人たちのことも理解できないので、常に主観を刷新していくことになる。そういう意味で、人類学の調査を一概に主観的だとは言えないのです。
社会人類学者のティム・インゴルドが言う、「相手と共に考えるプロセス」というのは、主観を引っ提げた存在として他者と関わりながら、その主観を更新していって、自分がもっていた見方とは、違う見方が可能なんじゃないかと、視点をずらしていくことなんですね。その次元とは別のところに客観的な指標があるとか、そちらのほうが望ましいとは、考えないのです。なぜなら、客観的に思える数値や概念装置自体が、実は主観的な切り取り方で選ばれたものであって、先ほど出口先生がおっしゃったように、ある種の価値語でしかないからです。その「客観性」を他者の視点から問いなおされ、常に更新していく機会がないことのほうが問題だと思います。この状況を捉えるのに何が適切なロジックで概念装置なのか、現場で他者と対話し、試行錯誤しながら発見していくことが、現実をより正確に捉えるために重要だと考えているんです。