シミュレーションは、新しい地球の未来をつくる
NTT宇宙環境エネルギー研究所における気候変動や社会現象の未来予測技術の開発など、スーパーコンピュータを利用した高度なシミュレーションは不可欠な技術です。
リサーチプロフェッサーを務める高橋桂子氏は、日本の気象・気候研究の第一人者である松野太郎博士や「気候の物理的モデリング、気候変動の定量化、地球温暖化の確実な予測」に関する研究で2021年にノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎博士らとともに、スーパーコンピュータ「地球シミュレータ」を利用した研究開発に長年携わってきました。
まさに日本のスーパーコンピュータの歴史と並走した高橋氏に、シミュレーションが実現する未来社会についてお話を聞きました。
※所属は取材当時のものです。



高橋 桂子 (たかはし けいこ) 工学博士
NTT宇宙環境エネルギー研究所 リサーチプロフェッサ
東京工業大学大学院総合理工学研究科システム科学専攻博士後期過程修了。花王(株)、ケンブリッジ大学、国立研究開発法人海洋研究開発機構 地球情報基盤センター長、経営管理審議役、横浜研究所長を経て、2021年4月より早稲田大学 総合研究機構グローバル科学知融合研究所 研究院教授。地球環境、大気、海洋および水循環などの超大規模シミュレーションおよび予測研究、超並列・高速計算の技術研究開発に従事。
1. 社会に貢献するシミュレーション研究
高橋さまの専門は、スーパーコンピュータを用いたシミュレーションによって地球規模の気候変化などを予測する研究です。具体的にはどのような研究なのでしょうか?
高橋氏 私たちは、スーパーコンピュータを用いて、豪雨の原因のひとつとされる都市環境における蓄熱の分布を高精度でシミュレーションしています。
これらのシミュレーションの成果から、たとえば都市の気温を下げる働きのある樹木や水をどこに、どのように配置すれば都市の環境を効果的に改善でき、どのような規模で施策を実施すれば豪雨の軽減や防災につなげられるかを予測することが可能になります。
私たちの予測研究の事例を図1と2で紹介しましょう。


これらの成果から、将来の街づくりのためのさまざまな施策の立案や実現に役立つ情報を生み出すことができます。現象の解明と予測シミュレーションによって、新たな有用情報を生み出し、社会に貢献することが私たちの研究です。
NTT宇宙環境エネルギー研究所におけるリサーチプロフェッサーとしての仕事は、どのようなものなのでしょうか?
高橋氏 NTT宇宙環境エネルギー研究所では、地球や環境の再生に取組む新しいプロジェクトが始動しています。スーパーコンピュータを活用して大規模な予測シミュレーションも視野に入っています。それらプロジェクトのアウトプットを最大化するための助言や提案を行っています。
具体的には、イノベーションを創出するための研究開発の方向性や学術、産業など各方面との連携のためのアドバイス、共同研究の促進支援などです。
2. シミュレーションは新しい未来の形をつくる技術になる

地球の将来を予測し、その施策や提言を生み出すためのシミュレーション手法には、どのようなものがあるのでしょうか?
高橋氏 従来の代表的な手法として「システムダイナミクス」と呼ばれる手法があります。1972年にスイス法人の民間組織ローマクラブの委嘱により作成された報告書「成長の限界」で用いられた有名な手法です。システムダイナミクスは、地球の持続可能性と人間活動からなる複雑なシステムにおける経時的な変化を、シミュレーションによって理解する手法です。
「成長の限界」を牽引したマサチューセッツ工科大学のメドゥズ博士らのグループは、人間活動とそれを支える仕組み全体を「世界システム」とし、世界システムを構成する因子間の相互関係を「世界モデル」として構築しました。そのモデルを使用してさまざまな仮定のもとにシミュレーションを行いました。
約100年間の地球の将来を推定し、資源の枯渇によって世界成長には限界があることを示しました。(興味のある方は、『成長の限界』大来佐武郎監訳 ダイヤモンド社 をご覧になってみてください)。その結論は、「地球は有限である」というメッセージとともに社会に大きなインパクトを与えるものでした。
「成長の限界」で用いられた世界モデルは単純すぎるという指摘もありましたが、本質を捉えた単純化ともいえます。これらの手法は、モデルの精緻化やコンピューターの性能の進歩も伴って、さらにさまざまな分野において発展をしています。
高橋さまの研究では、どのようなアプローチで、具体的な政策や提言に結びつくシミュレーションを行っているのでしょうか?
高橋氏 私が取組んできたシミュレーションは、システムダイナミクスの手法とは異なり、物理法則を基盤とする物理シミュレーションです。この物理シミュレーションをシステムダイナミクスの手法と融合させて、従来の手法よりもさらに経済、産業、社会に直接関係付けられるモデルとシミュレーションを開発するとても野心的な挑戦に、現在取組んでいます。
加えて、世界規模と地域レベルの水大循環を同時に捉えられるような水大循環シミュレーションによって、人間社会の基盤ともいえる水問題の解決を模索する挑戦的な研究も進めています。
環境やエネルギー、食料、災害など、地球のさまざまな課題は、すべて水と関係しているといっても過言ではありません。
私の研究では、地球における水の大循環を、地球規模の循環システムとして捉えると同時に地域の水大循環と関連させて、地球、地域、都市といった異なるスケール(規模や尺度)間における複数の時間軸(過去・現在・未来)の相互作用を、人間活動も取り入れてシミュレーションします。このようなアプローチから、これまでは扱うことが困難だった世界規模の環境と私たち一人ひとりの人間活動とのバランスの解明をめざしています。
今後、シミュレーションによって私たちの未来の捉え方はどのように変わっていきますか?
高橋氏 私たちが「未来」と呼ぶもののうち、いくつかは未来ではなくなるのかもしれません。
個人と周囲の未来、国の未来など、私たちはさまざまな未来に紐づいた現在を生きています。そのうちいくつかの未来は、30年先までだいたい予測できる状態になるということです。
たとえば、気候がどのように変化するかが高い精度で予測できるようになり、それに対して経済がどのように変化するかについてもある程度見通せるようになると、人はすでに未来がわかった状態のなかで活動することになります。もし、異なる未来を描きたいのであれば、その実現に最も近い道筋を選ぶことになる。つまり、個人レベルでは住む場所や仕事など、国レベルでは都市計画や産業構造などさまざまな意思決定のしかたが生まれ、情報の活用のありかたにも大きな影響をおよぼすと考えられます。
シミュレーションがさらに進化すれば、特定の未来を実現したり回避したりするための情報を生み出すことができるようになるでしょう。
近い将来、シミュレーションは現在とは異なる、もっと身近で、全く新しい未来の形や考え方をつくるための基盤技術になると私は考えています。シミュレーション技術は個人レベル、地域・国家レベル、地球レベルで新しい未来をつくることに貢献していくでしょう。
3. シミュレーションを革新するもの
地球環境をシミュレーションする手法を進化させるための鍵は何だと思いますか?
高橋氏 「マルチスケール・マルチフィジックス」「人間のアクション」をシミュレーションに取り入れながら、さらに複雑な世界を予測可能にしていくことが鍵だと考えています。
マルチスケールとは、異なるスケールの相互作用をシミュレーションに導入することをさします。シミュレーションや物理の世界では、地球、国、都市、さらには都市の建物、インフラ、人口動態といった規模や尺度の違いを「スケールが異なる」といいます。スケールが異なると作用している法則が異なる場合があるので、マルチフィジックスも合わせて重要になります。
さらに、地球環境のシミュレーションでは、「地球規模の気候変化が都市にどのような影響を与えているのか」や、「都市の発展の仕方が地球規模の気候にどのような変化を与えているのか」といった異なるスケール間の相互作用を理解して解決する必要があります。
そのため、異なるスケール間の相互作用をシミュレーションに取り入れるマルチスケール、マルチフィジックスの考え方が鍵となるのです。
また人間のアクションとは、経済、産業、施策、人口動態や移動など、人間活動そのものをさします。
たとえば、「地球環境に影響を与えているキーとなる人間のアクションは何か」といった問題も、地球環境との共存のなかで、有限の自然資本というとらえ方のなかで、解決していくことが求められます。人間のアクションをシミュレーションのなかで扱えるようにすることは必要不可欠になります。
このように、マルチスケール・マルチフィジックス、人間のアクションを過去・現在・未来それぞれのシミュレーションに取り入れていくことがシミュレーション技術を革新することになり、その成果が私たちの未来社会をよりよくするための鍵となります。
地球環境のシミュレーションは未来を予測するものだとイメージしがちですが、未来以外の時間軸を扱うシミュレーションもあるのですね。
高橋氏 はい。未来はもちろん、「現在」と「過去」のシミュレーションも有用です。
「過去」のシミュレーションでは、地球環境のセンシングデータや過去の報道資料などのテキストデータや画像データを解析することで、過去に起きていたことのメカニズムを解明することが可能です。過去に起こったことがどうして起こったのかわからない、そういった未解決な問題はたくさんあるのです。
「現在」のシミュレーションは、過去がいかにして現在につながり、どのような原因が結実して現在に至っているかを過去から時間を追って明らかにします。現在がどうして成り立っているのかを知るわけですね。ですが、これも大変難しいことで、まだまだ途上です。私たちは「現在」を知っているようでも、それは大変断片的です。
そして未来のシミュレーションでは、現在のデータをもとに想定される条件を変化させて、将来をシミュレーションし、未来の姿を知り予測することができます。その成果は、気候変動への施策など社会におけるさまざまな意思決定に貢献します。
シミュレーションではどのように情報を取得していくのでしょうか?
高橋氏 地球環境のシミュレーションでは、観測機器で測定された気温、湿度、風力、海水温など、さまざまな手法で取得された情報を組み合わせて用いています。また、最近の特徴的な例としては、AIを活用した取組みもあります。
たとえば、過去に起きた「エルニーニョ現象」(太平洋赤道域における日付変更線周辺から南米沿岸にかけての領域で、平年よりも海面水温が高い状態が一定期間続く現象)のメカニズムを調べる場合、過去の報道資料や古文書、絵画なども情報源になりえます。AIを活用して情報収集し自動的に解析することで、情報の質と量を向上させ、メカニズムの解析や予測に役立てることが可能になるのです。
私たちは、過去の報道資料や画像をAIで解析し、その結果を利用して自動的な予測が可能かどうかを試みる研究も開始しています。異なる種類のさまざまなデータや情報をビッグデータとして解析することで、その成果をシミュレーションに活かすことにより予測精度を向上させることが可能です。非常に有益な情報になるのです。
日本ではこうした試みはあまり取組まれていないため、今後さらに若い方々が研究開発に取組んで、新たな実用化が進むことを期待しています。
こうした多種多様な巨大データの解析や高度なシミュレーションには、莫大な計算が不可欠となるため、超高速でエコなコンピューティング技術の開発も、同時にとても重要です。
高度なコンピューティングは何によって可能になるのでしょうか?
高橋氏 非常に大規模な処理を超高速で実行できるスーパーコンピュータによって可能になります。
これまでも、そして今後の最も重要な技術革新は、スーパーコンピュータによる巨大データの超高速処理の実現と消費電力削減の両立でしょう。「スパコン一台に原発一基」とかつていわれたほどの消費電力の削減は、なんとしても必要な技術です。
そこで、IOWN(Innovative Optical and Wireless Network)構想に大きな期待を寄せています。IOWNが実現することで、ネットワーク間の通信能力や巨大データの処理能力の劇的な進化がもたらされます。
そうなれば、さまざまな観測機器からの情報とシミュレーションによる情報を双方向で高速にやりとりすることができるため、さらに進化したコンピューティングが実現できると思います。IOWNの実現はこれからの日本の革新を担っているといえるでしょう。
4. 「欲張り」であることが新しい分野をつくる原動力になる

地球環境のシミュレーション研究に進まれたきっかけを教えてください。
高橋氏 1997年の、地球シミュレータプロジェクトの研究者公募に応募したことが大きなターニングポイントでした。
地球シミュレータプロジェクトの中心研究者のなかには、2021年のノーベル物理学賞に輝いた米プリンストン大学上席研究員の真鍋淑郎博士もおられました。松野太郎先生、真鍋淑郎先生、地球シミュレータの開発を牽引された故 三好 甫先生をはじめとした非常に個性豊かでパワフルな先生方と、世界に先駆けたスーパーコンピュータを日本ではじめて作る、それを使って世界最大級の、最先端のシミュレーションを実現して地球環境問題の解決に貢献するという、なにもかもが新しい挑戦に参画できたことは、とても幸運な出来事でした。
地球温暖化の問題認識がまだまだ社会的に共有されていなかった当時から、シミュレーションが地球環境の改善に不可欠であることを前提に推進された地球シミュレータプロジェクトは、非常に先進的なプロジェクトでした。2007年に気候変動に関する政府間パネル(IPCC)がノーベル平和賞を受賞した際には、地球温暖化研究に貢献したとして「地球シミュレータ」もノーベル財団から感謝状をいただいたんですよ。
研究の魅力や達成感についてお聞かせください。
高橋氏 さまざまな領域の研究者とコラボレーションできることは大変魅力的ですね。地球規模のテーマを扱っていると、必然的に多様な分野の専門家と協力することになるのです。
異なる分野の研究者と共同研究を進めることは容易ではありませんが、とても発想が豊かな研究ができますし、大きな達成感を感じられます。研究の企画段階から社会実現までの一貫した取組みを自ら推進できることも魅力ですし、達成感につながります。
研究者としての今後の目標について教えてください。
高橋氏 今後は、地球全体や日本の将来の基盤となるデータと情報を作っていきたいと考えています。現在、物理シミュレーションと経済シミュレーションの融合が可能になりつつあるので、社会や産業、環境を横断的かつ定量的に評価し、予測できるモデルの研究開発やシミュレーションを進める予定です。
最後に、高橋さまのように新しい分野を開拓するにはどのような実践が必要なのか、研究に興味がある方に向けたメッセージをお願いします。
高橋氏 研究者をめざす方々には、ぜひ「欲張り」になってもらいたいと思います。あれも、これも必要で重要、だけれどそれから何を選択するか。その選択に、オリジナリティが必ず生まれます。
自分ができることはこれくらいじゃないか、と決めてしまうことは、必ず視野を狭くします。そんなときこそ少し欲張りになって、「少しでも、あれも、これも、多くを取り入れ、実現する方法はないか?」と視野を広げる。工夫し、頭をひねり、あきらめないことが重要だと思うのです。
そうして背伸びしたり欲張ったりして、今いる場所とは違うところに飛び込んでいって、自分の可能性を伸ばしてください。そこが自分に合わなければ、また戻ってくればいいわけです。そうしたプロセス自体とその連続が、結果的には新しい分野や、盛り上がっていく研究の先端に自分を位置付けることになるのだと思います。
こうしたことには時間もかかるし、エネルギーも要ります。なにより不安定な気分ですね。それでも、不安定な状況をキープするタフさが大切です。
多くの人は心配になると安定を模索しますが、そんなときは、自分は誤った道を進んでいると思った方がよいと思います。地球環境のシミュレーションをしていて思いますが、この地球上に安定している時や場所など、ひとつもないのですから。
日本電信電話株式会社外からの寄稿や発言内容は、
必ずしも同社の見解を表明しているわけではありません。
このオウンドメディアは、NTT宇宙環境エネルギー研究所がサポートしています。
宇宙環境エネルギー研究所では、社会課題の解決に向け多様な人材を募集しています。