更新日:2022/09/13
「文理共創対談 テーマ② アフターデジタル時代の〈わたし〉(3/4)」から
鼎談者: 池上英子氏(社会学者)、出口康夫氏(哲学者)、永徳真一郎(NTT デジタルツインコンピューティング研究センタ)
NTT デジタルツインコンピューティング研究センタ

出口 さきほど興味深いなと思ったのは、池上先生が、場において重要なこととして、ある種の「面白さ」を挙げておられたことでした。権力の磁場から完全には自由にはなれないものの、そこからある程度、そして一時的にも離れられるアジール(聖域)として、「面白い場」があった、と。そして、池上先生ご自身が、そこにいろいろな可能性を見ておられるというのは、非常に刺激的でした。私も「われわれとしての自己」ということを倫理の問題としては考えていますが、面白さという点からは考えていませんでした。
そこで確認したいのが、「面白さ」とは何かということです。たとえば英語で言えば、新鮮味や高揚感を伴う'interesting'や'exciting'ということなのか。または居心地のよさ、'comfortability'とか'coziness'、さらには'familiarity'とでも言うんでしょうか、「なじみ」「親しみ」がある場という可能性もある。このように「面白さ」ともいろいろなニュアンスの違いがありますが、そのニュアンスの多様性も重視されておられるのではないかと感じました。
哲学者のハイデガーは、「共にあること」、ドイツ語で'Mitsein'と言いますけれども、その重要さを強調しています。彼は、単に個人として存在するのみならず他者と共にあることにも人としての本来的な在り方があると考えたわけです。でもハイデガーにとっての'Mitsein'、は、エキサイティングというよりは、むしろ「なじみ」とか「親しみ」という感情や感覚を伴っていると思います。自分が生まれ育ったコミュニティー、特に村落共同体のようなところで、お互い祖父母の代から知っているというような、顔の見える関係。そういうところに共に棲んでいることが、彼の言う「共にあること」のモデルです。
このことは、ハイデガーの限界でもあって、彼は、'Mitsein'を何の説明もなく「民族」'Volk'にスライドさせてしまいます。この民族にもいろいろな意味がありえますが、地縁血縁で閉じ、他所者を排除する「閉じた共同体」、「閉じたわれわれ」に容易に転化する危険性もはらんでいます。このような危険なスライドが起こった背後には、そもそも、「共にあること」のパラダイム(模範例)が、「親密さ」を基調とし、「同じ土地に長年一緒に暮らしてきたこと」という、新たな他者の参入を許さない、「取り返しのつかない事実」の共有によって結ばれた「なじみの共同体」とされたという事情が控えているのではないか、と私は考えています。
そういった「閉じたわれわれ」に陥らないように、現代のアメリカの哲学者ローラー(Lawlor)は'friendship of passage'ということを言っています。私はこれを「通りすがりの友情、行きずりの友達」と訳しているのですが、たとえばニューヨークの雑踏を行き交う人々の間で、ふとしたきっかけで会話が始まり、一通り話し終えた後で、最後に'I'm Peter'とか言って、名前を名乗って握手をして、それで別れていく、といった光景が見られます。ここではある種の'friendship'ないしは'fellowship'で結ばれた「われわれ」が成立しているわけですが、この「われわれ」は、ハイデガーの閉じた親密圏としての「われわれ」とはちょっと違う形の「われわれ」ですよね。ローラーは、そこに、その場限りだけれども誰でも参加できる、開かれた社会的な連帯(Bond)の可能性を見ようとしているんだろうと思います。
池上さんが「面白いパブリック圏」ということをおっしゃる場合、そこに、時として予想を裏切る振る舞いにも及ぶ他者ないしは異者を受け入れ、その彼らとのその都度の交わりによって切り開かれる、開かれた「われわれ」、開かれた共同体性のモデルを見ておられるのではないかなと思ったんですけれども、その辺りをお聞かせいただければと存じます。
池上 ご存じのように、私が在籍するニュースクール*1の社会科学や哲学のファカルティは第2次世界大戦前のナチス勃興時からのUniversity in Exile(亡命大学)という形から出発しています。戦後には、ハイデガーの教え子でその政治的立場への批判者でもあったハンナ・アーレントなどが哲学・社会科学で独自の研究を展開しました。村落共同体の閉じた形の話は、大戦中のハイデガーの行動に対してよく聞く批判にも通じる話だなと思うんです。ちなみに同じ時代に自然科学ではアインシュタインが、ナチスドイツを脱出してプリンストン高等研究所に身を寄せましたね。この時代にドイツの基礎研究を重視するアカデミックカルチャーが米国に根付いて、戦後の米国の科学発展を支えることになります。
面白さの追求と基礎科学研究のスピリットは、あんがい共通するところがあります。たとえば先に触れましたが、かつてアインシュタインやゲーデルのようなスペシャルな頭脳を迎え入れたプリンストン高等研究所は今も創立者が唱えた『The Usefulness of Useless Knowledge』(役に立たない知識の有用性)をモットーとしています。「面白い」という好奇心が研究の原動力であり導きの糸となるべきだ、ということです。だから面白い、は研究の自由ということとつながりますね(1)。
ちなみに、江戸時代は面白さばかり追求した趣味のグループがたくさんありましたし、それこそ寄席は二百何十もありました。そこでの面白さというのは、笑って一緒の時を過ごすんですけれども、あまり面倒くさいものは付いてこない、といった類のものでした。でもそこに村落共同体や身分階層制度の道徳とは違う、ひらりと舞う蝶のような自由があった。面白い遊びのパブリック圏は、生まれついた共同体ではなく、自分で選んだ気楽な趣味の世界です。ただし、その気楽さは、遊びのルールに支えられているところもありました。たとえば5、7、5の範囲で面白いことを言う、というような、ゲームのルールです。ルールは遊びを深いものにし、コミュニケーションの土俵をつくります。俳諧にしても落語にしても知れば知るほど深い世界ですよね。あの時代は高度な「和算」も「芸」と見なされたくらいです。でもそうしているうちに、結局面白い時間、深さのある時間のほうが人は楽しいわけですから、現実の身分制度のような堅苦しい世界を相対化して、ほんとの自分はこっち、というような気持ちが広まってくる。それを抑え込んで、面白くない方向だけれどモラル化したのが、明治以降の国民国家の歴史だったと思います。
社会が複雑化してくると、経済学の始祖であるアダム・スミスも『国富論』だけでは成り立たなくて、『道徳感情論』を書くわけです。よく知る者同士の付き合いが中心だった封建的前近代の世界では、人々の行動倫理を確保することは難しくない。でも近代の足音とともに、知らない人々との袖を擦り合う程度の付き合いの人との交換が増えてくる。そこで信頼性をどう確保するか。「見えざる手」だけでは難しいわけです。『感情道徳論』のなかではstrangershipみたいなことが書いてあって、見知らぬもの同士の間でどういうふうにマナーをふまえた、ある意味で道徳的な交際ができるかというのが、アダム・スミスなどの問題意識だったわけです。それは当時のスコットランド啓蒙学派と呼ばれる知識人たちの共通の時代的課題でした。それをアダム・スミスは道徳論として書いているわけだけれども、意外にも「面白さ」というのも市民性を考えるうえでの、ブレイクスルーになる可能性はあると思います。
見知らぬ人同士のつながり、これをアラン・シルバーという社会学者が 「ストレンジャーシップ」と呼んでいて、拙著Bonds of Civility (Cambridge University Press,2005)では、私もそのストレンジャーシップを市民性(Civility)の重要な要素として語っています。ですが、その面白さのなかにこのルールを織りこめるかどうか。面白さはエネルギーのもと。その面白さの可能性をどういうふうに引き出して、いい方向へ持っていくかも、場のデザインをするうえでの大きな課題かなと思います。
出口 デジタルツインについての議論にも、真面目なことばかりじゃなくて、ぜひそういう面白さを入れていけるといいですね。
永徳 たしかにそうですね。ついつい、真面目な方向に行ってしまいますが。
池上 いまや面白いことだけを仕事にしている会社もたくさんありますからね。実際今のメタバースはほとんどがゲーム出身ですし。ゲームはローカルのルールがはっきりしています。より汎用的実用的な仮想世界も、見知らぬ人同士のつながりにルールを織りこんだうえで、普通の生活にも役に立つけれども、ちょっと面白い、みたいなやわらかなしかけがあると、新たな文化が生まれてくるのではないでしょうか。
*1 ニュー・スクール大学(The New School) 米国ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにある私立大学。第1次大戦下、検閲や外国人排斥の動きが高まるなか、ジョン・デューイ、チャールズ・ビアードらの知識人らが学問の自由と知的探究に専念する"新しい学校"を目指して1919年に設立。New School for Social Researchとして学士号を持たない社会人や、黒人史、女性史、映画史などを初めて取り入れるなど革新的な大学として知られる。ナチスに排斥されたドイツ系のユダヤ人研究者を迎え入れて、ヨーロッパ哲学・社会科学研究の米国における一大拠点となった。
以上