更新日:2023/01/20
私たちが食べたものは消化され、代謝されるとともに、血液を介して全身に運ばれます。個々人の血液の成分情報を可視化することで、自分の好きなものを食べつつ、自然体で健康も維持できる世界の実現をめざしています。日常で連続的なモニタリングを継続するためには、簡便で違和感のない生体センシング技術が求められます。本稿では、電波が持つグルコース成分を選択的に測る特長を利用した誘電分光技術を用いた、採血が必要ない(非侵襲)グルコースセンサを紹介します。
中村 昌人(なかむら まさひと)/田島 卓郎(たじま たくろう)
林 勝義(はやし かつよし)
NTT物性科学基礎研究所
私たちはさまざまな生体情報を信号としてとらえ、観測された信号を基に人それぞれの身体や心の状態をモデル化し、疾病の早期発見をはじめとするウェルビーイングの向上をめざす「バイオデジタルツイン™」構想を掲げて研究開発を進めています。本稿では、さまざまな生体情報の中から、生体内のグルコースの非侵襲計測に着目した取り組み事例を紹介します。グルコースとは体の中に存在する糖質の主成分であり、健康診断などでよく耳にする血糖値とは血液中に含まれるブドウ糖(グルコース)の濃度を意味しています。血糖値は糖尿病をはじめとしたさまざまな疾病との関連が指摘されている重要な生体情報の1つであり、食事や運動など、すなわち糖質の摂取と代謝の影響を大きく受けながら1日の中で時々刻々と変化しています。
健康的な人の血糖値は図1(a)の破線で示すように緩やかな変化をしていますが、近年、図1(a)の実線で示すように食後短時間で血糖値が急上昇する「血糖値スパイク」が注目されています。血糖値スパイクが頻繁に起こると血管にダメージを与え、心筋梗塞や脳梗塞を発症するリスクが高まることが知られています(1)。一方で、血糖値は食事や運動習慣によりコントロールしやすい指標でもあります。図1(b)に空腹時に清涼飲料水と糖分ゼロの清涼飲料水を摂取した際のグルコース値の変化の例を示します。一般的にグルコース値は食後30分から1時間程度で上昇するといわれていますが、糖分ゼロ飲料を摂取した際には大きな変化はないことが分かります。この例は極端な場合を示していますが、同様に食品の種類や食べ合わせ、摂取する時間帯や運動習慣によってもグルコース値は変化することが知られており、グルコース値の時系列データを可視化することで、個々人でそれらがどう影響するかが評価可能になります。
現在、グルコース値の時系列データは持続血糖測定器(Continuous glucose monitoring system:CGM)と呼ばれる医療機器を用いて測定されています。CGMは、図2(a)に示すように、柔らかい針を皮下に留置し、組織の細胞間の間隙を満たす間質液中のグルコース値を測定します。間質液とは毛細血管から皮下の組織ににじみ出た組織液のことであり、血中のグルコースは、間質液を介して個々の細胞に取り込まれ、利用されています。血中と間質液中のグルコース濃度の相関性は高いのですが、タイムラグが生じることが知られているため、前者は「血糖値」、後者は「グルコース値」として区別されています(2)。CGMは採血をせずにグルコース値の時系列データを測定できるため、糖尿病の治療や栄養学の研究などに用いられていますが、針を刺す必要があるための利用者の精神的な負担、傷口からの感染症の発症リスク、および消耗品であるセンサの交換が必要で測定の手間が残るといった課題があり、これらを改善することでより利便性が高まり、多くの方の健康を維持することに貢献できると考えています。
そこでNTTでは採血が不要(非侵襲)で、どこでもリアルタイムにグルコース値を測定できるセンシング技術の実現をめざしています。図2(a)のCGMの隣にNTTの考える非侵襲グルコースセンサのイメージを示します。NTTで研究開発するグルコースセンサは、細胞を含む組織全体の誘電率を計算し、そこから間質液中のグルコース値を推定するものです。体を傷つけることなく、いつでもどこでもグルコース値の変化を測定することで、「血糖値スパイク」を見つけたり、食事等の行動と血糖値の関係を把握でき、行動を変えるきっかけづくりに貢献できると考えています。また、非侵襲グルコースセンサで得られた情報を各種の身体データの蓄積された「バイオデジタルツイン」に反映し、個人の特徴に合わせた情報処理によりグルコース値の変化を予測していくことで、グルコース値を可視化するだけでなく、食を我慢することなく健康な体づくりも実現できるような新たなサービスにもつながるとも考えています(3)。非侵襲グルコースセンサとバイオデジタルツインを用いたサービスイメージを図2(b)に示します。例えば日々の行動とグルコース値変動の関係性を基にした、健康改善につながる行動のユーザへの提案や、生活習慣病予備群を対象とした企業向け健康診断・保健指導サービスでの活用、血糖値の変動を抑えるためのメニューや食材のレコメンドなどをユースケースとして検討しています。
次に、バイオデジタルツインのキーデバイスの1つとして研究開発を進める非侵襲グルコースセンサの動作原理や現在の研究開発状況について紹介します。


非侵襲グルコースセンサは、1990年代から光を用いた手法を主流として現在も世界中の機関で研究が行われていますが、いまだに実用化には至っていない非常に困難かつインパクトのある研究です(4)。NTTでは電波を用いた成分分析手法である誘電分光法に着目しています。誘電分光法は、物質の誘電率の変化によって変化する電波の位相や吸収量を成分濃度と対応させることで成分濃度を分析する手法であり、光を用いた手法と比べて波長が長いため生体組織に照射したときの散乱の影響が少ない、無線通信などで培われた回路技術を活用することで小型化がしやすい、といった理由から本手法を用いた研究を進めています。ここでは、電波の吸収量の変化を例に、NTTのグルコースセンサの動作原理を説明します。
図3(a)にグルコース水溶液に対する電波の吸収スペクトルを示します。横軸が電波の周波数、縦軸が電波の吸収量に対応しています。グルコース水溶液に電波が照射された際に生じる吸収は主に溶質であるグルコース、溶媒である水、そしてグルコースと結合した状態の水である水和水の3つに由来すると考えられます(5)。それぞれの吸収量は図3(a)のグラフの橙色、水色、紫色の実線部に対応しており、これらの吸収が重なり合ったものが、図3(a)の点線部に示すようなグルコース水溶液による吸収として測定されます。図3(a)からも明らかなように、グルコース水溶液で支配的な吸収は水と水和水による吸収になりますが、水和水による吸収はグルコースが水と結合したことにより生じることから、グルコース由来の吸収スペクトルであると考えられます。水溶液中のグルコースが増加したとき、より多くのグルコースが水と結合した状態となるため、グルコース水和水の量は増え、グルコースと結合していない水の総量は減少するため、グルコース水和水による吸収は増加し、水による吸収は減少します。また、グルコースが減少した場合にはこの逆の現象が生じます。これによりグルコースの増減に伴いある周波数における電波の吸収量も変化するといえ、数分〜10分程度の間隔で電波を照射し、反射されてくる電波を解析することによりグルコース濃度の変化を推定するというのが動作原理となります。
本原理を検証するための研究を市販の測定装置を用いて実施した結果を図3(b)、(c)に示します(6)。図3(b)に示すように市販のマイクロ波信号測定装置と測定用プローブをベッドサイドに設置し、研究参加者の腕に測定用プローブをあて、3時間連続して測定を行いました。研究参加者は測定日の朝食は抜いた状態であり、測定開始から30分経過時点で、人間ドックなどで検査の際に用いられる糖負荷試験薬を摂取することで体内の血糖値を変化させてもらい、CGMで測定されるグルコース値と誘電分光による出力結果を比較しました。その際、誘電分光のデータは測定用プローブと皮膚の間の水分量や温度の変化の影響を受けるため、そのままではグルコース値の変化とは対応しないため、これらの影響を補正する独自の信号処理を行っています。信号処理後の誘電分光、CGMの測定値の規格化測定値の比較を図3(c)に示します。CGMの信号変化に追従するように誘電分光による信号が変化しており、NTTの検討している方式による非侵襲グルコースセンシングのフィージビリティを示せたと考えています。


今回紹介した非侵襲グルコースセンサ以外にも、利用者の負担を小さく生体情報を取得するための生体センサについて研究開発を進めています。バイオデジタルツインの実現に向け、ユーザとデジタルデータを結び付けるための技術の創出をめざしていきます。