"わたしの拡張"-SFプロトタイピングで描く「人とデジタルツインの未来」-

未完成感性社会

津久井五月
NTT人間情報研究所
WIRED Sci-Fiプロトタイピング研究所

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株式会社エステシアのオフィスは仮想空間バーチャルなのだから、面談場所は花畑でも海辺でもいいはずだ。なのに、小泉亜里沙アリシアは真っ白な小部屋で席について、室長と顔を突き合わせているのだった。

「小泉、焦ることはないんだ」

室長がやわらかい表情で言う。その男性アバターの表情が、この場の心理的安全性を高めるために調整されたものだと亜里沙は知っている。それでも実際、こわばりは少しほぐれた。ショックと気まずさは少し和らいだ。

「君は第一開発室でじゅうぶん役割を果たした。今回の異動の意図は、君にはほかの立場から会社に関わってほしいということだ。今の君には第六開発室がぴったりだ」

それって要するに──わたしはもうこの部署では用済みということでしょう。

ゲームクリエイターとしての成功は、もう見込み薄だということじゃないですか。

俯きかけた亜里沙を励ますように、感性翻訳丶丶丶丶が耳元で囁いた。

〈君の努力は第一開発室のみんなに認められた。今回の異動の意図は、この会社エステシアというコミュニティをより深く知ってほしいということだ。第六開発室であれば、今の君がのびのび働けるはずだ〉

エステシアの感性翻訳AIによれば、それが室長の真意なのだ。端的でシステマティックな彼の言葉を、亜里沙の感性で理解しやすい対人関係の表現に言い換えてくれている。おかげで室長の冷たい印象は少し薄れ、亜里沙は顔を上げることができた。

室長は再度、やわらかく微笑んだ。こころなしか、その表情は少し本物らしく見えた。

面談が終わる頃には、亜里沙は平静を取り戻していた。

白い面談室を出ると、そこは明るい森だ。仮想空間バーチャル上に作り上げられた四月の新緑が眩しい。第一開発室の同僚たちは、それぞれの木陰で作業に没頭していた。

自分の定位置に戻りポストを開けると、人事部からメッセージが届いていた。先ほど室長から直々に告げられた、春の人事異動の内示だった。

小泉亜里沙アリシア殿。


二〇四四年四月一日付けで、第一開発室ディレクターの任を解き、第六開発室への異動を発令します。三月十五日までに没入型感性検査ISTを受けた上で、第六開発室の奥田絵里室長に連絡をとってください。

上記の人事は貴殿の直近一年間の業務実績に鑑みて決定されたものです。異議がある場合は人事部まで直接ご連絡ください。

株式会社エステシアの「E」のロゴマークがついた文書は、仮想バーチャルの物体なのにずっしりと重く感じられた。

──フェアで新しい組織像に惹かれたんです。

転職面談のとき、自分自身がそう言ったのを、亜里沙は思い出した。エステシアが生み出した『ジャーニー・オブ・メタ・スネイルズ』や『セカンド・アトラス』といった没入型イマーシブVRゲームの代表作の名を挙げる前に、まず会社自体のあり方に触れたのだった。

亜里沙の思いはすぐに面談相手に伝わったはずだ。仮想空間バーチャルの普及とともにゲームが生活に溶け込み、老若男女にぐっと身近なものになったとはいえ、作り手の業界には旧来の偏りが残っていた。小泉亜里沙アリシア──アフリカ系のルーツを持つ若い女性にとって、日本人の男性が大多数を占める一社目の就職先は、のびのびと活躍できる場所とはいえなかった。性別や容姿を理由に、見えない荷物を背負わされているような感覚が、前の職場での五年間ずっとあった。

それでもゲームクリエイターの道は諦めたくなかった。十代の頃から、外見も出自も年齢も関係ない自由な世界に連れていってくれたのが、VRゲームだったから。

転職を決意した頃、何かの記事でたまたまエステシアの制度を知った。業務の大部分を仮想空間バーチャルで行うという働き方にまず惹かれ、徹底した実績主義の評価制度に惹かれ、次に感性丶丶という語に心を掴まれた。

一人ひとりの感性丶丶に応じて人材を採用し、最適な活躍の機会を提案するという、斬新な組織づくり。八年前はまだ感性検査も感性翻訳も目新しく、エステシアが導入したというそれらのテクノロジーも亜里沙の関心を強く惹いた。

──当社エステシアは、あなたのような感性を求めていたんです。

人事担当者がそう言って合格を告げたとき、亜里沙は理想の職場を見つけたと思った。自分そのものが肯定されたにも等しいあの瞬間の感動を、彼女は今も鮮明に思い出せる。

気がつくと、内示を眺めたまま数分間も呆然としていた。

亜里沙は何度か深呼吸して、気を取り直した。

落ち込んでも仕方ない。できることをするしかないんだ。

慣れ親しんだ第一開発室の森を見回すと、同僚の何人かと目が合った。精一杯の笑顔で会釈した。この半年の間、失敗と不調で迷惑をかけた仲間たちだ。どう思われているにせよ、最後くらいは良い印象を残したかった。

それから手元でメニューを開いて、没入型感性検査ISTを起動した。

仮想の森と同僚たちの姿が消えて、別の空間が立ち上がる。灰白色の霧に包まれた、何もない場所。テスト開始を宣言すると、一人きりの空間にアナウンスが響き渡った。

〈このテストでは、あなたの感性を二つの観点で計測・分析します。一つは「印象分解能」。つまり、あなたがどれだけの細かさで物事の印象の違いを感じ取れるか、ということです。もう一つは「印象選好度」。こちらは、あなたが区別できる印象一つ一つに対する、好みの度合いです〉

聞き慣れた説明だ。およそ半年ごとに、もう二十回近くも繰り返してきたテストなのだから。

〈開始まで、三、二、一──〉

突然、霧が晴れる。

そこは、都市の大通りだった。

歩道をぎっしりと埋める人々の顔つきや服装は様々で、国も季節も判然としない。通り沿いには古今東西の建物がでたらめに立ち並び、車道では自動車がのろのろと長い列を作り、自転車が専用レーンを快走していた。

亜里沙は雑踏の中を歩き出した。色とりどりの服や建物や人の顔が目に飛び込んでくる。いくつもの音楽や、無数の言語でのおしゃべりが、耳元を通り過ぎる。地面にコインが散らばり、人々の足の間を小動物が駆け回る。いつものことながら、圧倒される情報量だった。

何をすべきか、亜里沙はよく知っていた。

気づき丶丶丶を探すのだ。違和感丶丶丶と言ってもいい。この空間に身を委ね、乱雑な形や色や音の中に何か丶丶を見つける。なんでもいいのだ。どんな些細なことでも。

ふとショーウインドウに目が留まる。その向こうに並ぶ数十の日本人形のうち、一体の表情が違う気がする。寂しげ丶丶丶な人形たちの中で、その一体だけ哀切丶丶に見えるのだ。

ガラス越しに人形を見つめ、その印象丶丶を声に出して言ってみる。

耳元でカチリと音がした。振り返ると、街の景色が心なしか変わっていた。

自然と、車道の反対側のビル群に意識が吸い寄せられた。堂々丶丶と立ち上がった外壁ファサードの並びの中、あるビルにだけ違和感を覚える。その起伏は堂々丶丶というより、隆々丶丶としている。

見つめて声に出す。カチリ。景色が変わる。

今度は二人の女性が外国語で話し合うのが聞こえてくる。一人の言い方は朗らか丶丶丶で、もう一人の話し方は晴れやか丶丶丶丶だと感じる。内容も分からないまま、じっと聞き耳を立てる。またカチリと音がして、振り返ると景色が違う。

自分が何を計測されているのか、亜里沙は知っている。見えるもの、聞こえるものに対する咄嗟の反応。眼球や手足の動き。印象を表現するために使う言葉。脳波の経時的変化。

この情報過多の空間の何を見過ごし、何に注意を向け、何に触れようとするか。すべてが亜里沙の印象分解能と印象選好度──つまり感性の鋭さ丶丶好み丶丶を分析する材料になる。

しかし、どう振る舞えばどういう検査結果が出るのかは、亜里沙にもさっぱり分からない。それを知っているのはテストを開発したSTT社の人間だけだが、あまりにも複雑で、彼らにもきちんと説明はできないかもしれない。

つまり、これは攻略法のないゲームだ。客観的でごまかしが利かない方法で、人の感性を丸裸にする。だからこそ、エステシアはこれを組織づくりの基盤に据えたのだ。

亜里沙はその後もしばらく街をさまよった。人々の会話に首をつっこみ、公園や川辺を訪れ、ときには車を乗り回した。没入型感性検査ISTを終える頃には、丸二時間が経っていた。

〈計測終了。分析結果が出るまで半日ほどお待ちください〉

再び霧に包まれたテスト空間に、アナウンスが響いた。

〈お疲れさまでした。どうか、あなただけの感性を大切に〉


VRゴーグルを外すと急に疲れに襲われて、亜里沙は自宅の仕事用ゲーミングチェアにどさりと体重を預けた。もう夕方で、部屋は暗かった。

何か食べるか。それとも外出するか──。

しばらく考えたが何も手につかず、結局は再びゴーグルを装着した。

起動するのは、別のゲームだ。

ダーク・グリーン・パッセージDGPへようこそ〉

音声とともに、周囲に森が広がった。エステシアのオフィスとは違う。もっと鬱蒼として、入り組んでいて、光と影がまだらに入り交じった森林だ。物陰から様々な鳴き声が聞こえ、いくつもの影が下生えや枝々の間を走り回る。同時にログインしているほかのプレイヤーたちが、思い思いの姿で交流し、遊び、ときに戦っているのだった。

しかし、その数は亜里沙が期待したほど多くはない。

いつもそうだ。期待通りの人数がここに集ったのは、リリース直後のほんの一カ月間だけ。亜里沙はそのことをよく知っている。彼女自身がこのゲームの監督ディレクターなのだから。

心地よい場所だった。森を歩き回ると、木々の壮大なアーチが美しい。下生えをかき分ける音が楽しい。アバターのメリハリある動きや、やり取りする感情表現エモートの一つ一つが小気味好い。

それも当然のことだ。この世界いっぱいに亜里沙のこだわりを詰め込んだ。第一開発室の優秀な同僚たちに指示を出し、巨額の費用をかけて開発したのだ。

顧客ターゲットと近い感性を持つディレクターが作り込めば、ゲームはヒットする」

そんな感性マーケティング丶丶丶丶丶丶丶丶丶の原則を信じて、亜里沙は開発期間を駆け抜けた。自分と近い感性を持つはずの全世界六〇〇万人に向けて、このゲームをリリースした。

でも、わたしは負けた──と亜里沙は内心で呟いた。

結果は期待を裏切った。たまたま前後して、欧州の大手ゲーム会社がリリースした『リンバス・インフィニット』。亜里沙と同じ感性タイプの若手ディレクターが、同じ感性市場丶丶丶丶を狙って開発したそのタイトルに、亜里沙の『ダーク・グリーン・パッセージDGP』は負けた。顧客ターゲットのゲーマーたちの多くは、『リンバス』の方に集った。

ビジネスとして大失敗だったというわけではない。開発費は回収できたし、評判もそう悪いものではなかった。それでも、売上やプレイヤー数の比較を見たとき、全身の力が抜けてしまった。

わたしの感性は世界の競合にあと二歩、三歩、及ばなかった。疲弊して、燃え尽きて、同僚に沢山迷惑をかけた。

森の中で、亜里沙はじっと感傷に浸った。

人事部はその実績を見て、エステシアの主幹である第一開発室からわたしを外した。その上、異動先があの得体の知れない第六開発室とは──。

泣かないようにしようと思っていたが、少し涙が滲んだ。

株式会社エステシアのオフィスは仮想空間バーチャルなのだから、どれだけ片付けが苦手でも散らかることはないはずだ。なのに、海辺を模した第六開発室の奥田絵里室長のスペースは、書類の山や正体不明のガラクタで雑然としているのだった。

「ちょうど君の感性コード丶丶丶丶丶を見ていたんだよ」

奥田室長はそう言ってニヤリと笑った。四等身アバターの顔はかなりデフォルメされていて、表情が極端だ。亜里沙の反応が薄いのを見て、彼女は弁解するように続けた。

「いや、感性コードから実際の人柄を想像するのが趣味でね。まあ、君の資料はほかにも一通り見てるんだけど。我が社のエースをお招きできて嬉しいよ」

胸がずきりと痛んで、亜里沙は思いがけず鋭い声を上げてしまった。

「皮肉は──やめてください」

奥田室長は目を丸くした。じっとこちらの顔を眺め、探るように言った。

「小泉さん、君は......今回の異動が左遷だと思ってる?」

図星を突かれて亜里沙が口ごもると、別の声が耳元で囁いた。

〈エステシアでも有数の努力家をプロジェクトに迎えられて嬉しいよ〉

コミュニケーション齟齬の兆候を検知し、感性翻訳が起動したのだった。

〈小泉さん、君は......今回の異動は、『DGP』の不振に対するペナルティだと感じてる?〉

「い、いえ、その......」

しどろもどろになって視線を落とすと、奥田室長の手元の資料が目に入った。そこには亜里沙の最新の感性コードが表示されていた。

感性コードは、没入型感性検査ISTの結果を示すバーコード型の図だ。

バーの一本一本が、本人が区別できる印象──たとえば寂しげ、哀切、堂々、隆々、朗らか、晴れやか──の一つ一つを表している。印象項目は単語と一対一で対応しているわけではなく、本人の語彙よりも細かく分解された項目には「晴れやか#3」「哀切#8」などと記号が振られる。分解が細かくなるほど、バーの幅も細くなる仕組みだ。

その上で、すべてのバーは上から下に、印象選好度の順番で並べられる。おおまかに見れば、上の方に細いバーが多く、下に行くほど徐々に太くなる。「好きな印象ほど細かく区別できる」という一般的傾向の現れだが、その傾向の強さは人それぞれだ。

亜里沙の感性コードは、上の方に細いバーがびっしりと密集していた。特に、やや悲観的な感情や、広い空間に関係する印象項目が、彼女自身の語彙を超えて細かく分解されている。感性マーケティングの分野で「トールスクリーン・ゴシック」と呼ばれる感性タイプだ。それがクリエイターとしての彼女の誇りであり、武器だった。しかし、今は──。

「自分はもうこの会社に不要かもしれない。そう感じてるんだね」

奥田室長がまた、亜里沙の心中を見透かすように言った。

「......はい」と亜里沙は正直に頷いた。「わたしの感性は世界の市場では通用しませんでした。チャンスを棒に振って、同僚にも迷惑をかけました」

亜里沙が目を合わせると、奥田室長は平静な表情で見つめ返した。目を細め、感性翻訳を聞いているようだった。それから小さく、なるほど、と言った。

「思った通り、小泉さんは第六開発室うちのプロジェクトに適任だ」

「プロジェクト──ですか」

「うん。君には、ある技術の実証実験に協力してほしい。STT社と共同開発中のもので、私はISC──没入型感性深化丶丶丶丶丶丶丶と呼んでる。ずばり、人の感性のうち、特定の部分の印象分解能を人工的に高める技術だよ」

〈要するに、感性の一部を鍛えて鋭くする技術だよ〉と感性翻訳が続いた。

亜里沙の戸惑いをよそに、奥田室長は背後のガラクタの山に呼びかけた。

「おーい、清水くん、ちょっと来て」

すると、ひょろ長い男性アバターが、向こう側から顔を覗かせた。すたすたとこちらに歩み寄り、亜里沙に会釈する。どこかで見覚えのある姿。それを思い出すのに数秒かかり、思い出した後は、驚きで固まってしまった。

「こちらはディレクターの清水慎二くん」と奥田室長は紹介した。「私と同期入社なんだ。この春、君と同時に第六開発室に移ってもらうことになった。小泉くんには、これからしばらく没入型感性深化ISCを試しながら、清水くんと一緒にゲームを作ってみてほしいんだ」

亜里沙はうまく返事ができなかった。

何しろ目の前にいる清水慎二は、エステシアが世界に誇る看板クリエイターなのだ。

清水慎二の感性タイプといえば、「アンビバレント・ロココ」。

彼の感性コードを見ると、緻密な形や構図、リズムに関する印象分解能が非常に高いことが分かる。その上で特徴的なのは、細いバーがコードの上方だけでなく、下方にもかなり多く分布していることだ。つまり好きな印象だけでなく、嫌いな印象に対しても感性が鋭いということになる。感性マーケティング会社の調査によれば、近年の若手クリエイターによく見られる感性タイプだ。

清水が十一年前に生み出した没入型VRゲーム『ジャーニー・オブ・メタ・スネイルズ』は、まさにそんな若者たちの感性を射抜いた。石ころの造形から水滴の響きに至るまで清水のこだわりを詰め込み、アンビバレント・ロココの感性を持つゲーマーにターゲットを絞って開発された作品だった。その狙いは当たり、想定以上の結果をもたらした。とある世界的ミュージシャンが本作に魅了され、熱心なファン活動を始めたのだ。

新興スタジオの一つにすぎなかったエステシアの名は一気に世界に知られ、『ジャーニー・オブ・メタ・スネイルズ』はその年を──いや、ここ十年のゲーム業界を象徴する作品の一つになった。この成功は、世界中のゲーム会社が感性マーケティングを本格的に取り入れる契機となったからだ。

顧客ターゲットと近い感性を持つディレクターが作り込めば、ゲームはヒットする」

エステシアが感性検査を取り入れた組織づくりにいち早く着手したのは、元を辿れば清水の功績だ。今、亜里沙がここで働いているのも、彼のおかげということになる。


小泉亜里沙──第六開発室・共同監督コ・ディレクター

四月、刷新された名刺にはそう書いてあった。

聞き慣れない役職名に亜里沙は少し意表を突かれたが、清水慎二の肩書きを聞いて、その何倍も驚くことになった。彼の役職名は亜里沙と全く同じだったのだ。

「どういうことですか。清水さんがディレクターで、わたしはプロジェクトマネージャーPMになるんだとばかり──」

少なくとも、第一開発室の体制はそうだった。ディレクターは自らの感性でゲームの品質に責任を持ち、PMはディレクターの意図の実現のためにあらゆる調整や段取りを担う。

「ごく小規模のチームだからね、専任のPMは必要ない。僕ら二人で分担しよう」

清水はひょろ長いアバターを揺らしながら、何気ない調子で応じた。

「では、早速仕事を始めようか。まずは、僕が制作したプロトタイプについて、君の意見を聞かせてほしいんだ」

彼がそう言うと、第六開発室のガラクタの山が消え、視界は急に薄暗くなった。

清水が手持ちのライトを点けると、起伏に富んだ地面や鍾乳石が姿を現す。そこは広々とした洞窟だった。

これが清水の新作ゲームのプロトタイプなのだ。無数に枝分かれした真っ暗な洞窟に棲み着き、音や感触や僅かな光を頼りにプレイヤー同士で交流し、遊び、ときに戦う。広い意味では亜里沙の『DGP』と同じジャンルのゲームだ。

しかし、顧客ターゲット開発者ディレクターの感性が違えば、ゲームは全くの別物になる。清水が作るということは、アンビバレント・ロココ向けの作品になるはずだ。

「まずは気楽に構えて、お互いのこだわりを言葉にしていこう」

「ちょ、ちょっと待ってください」

清水があまりに淡々と話を進めるので、亜里沙は慌てて遮った。前提が違いすぎて、感性翻訳すらうまく働いていないようだった。

「わたしの感性タイプはトールスクリーン・ゴシックなんです。共同ディレクターが務まるとは思えません。何かの間違いじゃないですか」

今度は清水が驚いた顔をした。

「奥田さんから聞いてないのかい? このゲームは、特定の感性市場を狙ったものじゃない。二人で協力して、感性マーケティングの枠組みに当てはまらない作品を目指すんだ」

〈僕と君の感性を混ぜ合わせて、新しい感性を備えたゲームを目指すんだ〉

亜里沙の困惑を察して感性翻訳が言い換えるが、それでも飲み込めなかった。

「それじゃあ、これは本当の開発プロジェクトではなくて、ただの実験なんですか。多くの人に届くものにはならないということですか」

落胆を顔に出すまいと亜里沙は努力した。自分はやはり、ゲーム作りの第一線から外されたのだ。一流のクリエイターと働けるのは幸運だが、妙な敗北感を拭いきれなかった。

清水は少し俯いて思案し、それから真面目な顔で亜里沙を見て、続けた。

「小泉さん、君は、ゲームの開発者ディレクター顧客ターゲットの感性は一致していなければならないと思う? それが本当に重要なことだと思うかい?」

「それは......重要だと思います。だって、それがこの会社の根幹でしょう」

少し迷ったが、亜里沙はそう答えた。

実際、その前提があったからこそ、彼女はチャンスを与えられたのだ。若くして『DGP』という大作のディレクターを任されたのは、エステシアが狙う感性市場と、彼女の感性が一致したからだ。

その期待に応えられなかったのは、ライバルがより優れた丶丶丶丶丶トールスクリーン・ゴシックだったから。自分は、感性同士の勝負に負けた。そう思うと苦味がこみ上げる。

「重要だからこそ──」と亜里沙は続けた。「奥田室長は没入型感性深化ISCを開発したんじゃないですか。わたしが清水さんの指示ディレクションをより正確に理解できるようにするために」

亜里沙の言葉をじっと聞くと、清水は曖昧に微笑んだ。その真意は亜里沙には読めなかった。感性翻訳は無言に注釈を付けてはくれない。

「違うんだよ、小泉さん。没入型感性深化ISCの実証実験に参加するのは君だけじゃない。僕もだ。君は僕の感性を学び、僕は君の感性を学ぶんだよ」

言いながら、清水は手元でメニューを操作した。

「今日は予定を変更して、まず没入型感性深化ISCを試してみようじゃないか」

たちまち、周囲の空間が霧に包まれた。

散乱する書類やガラクタの山が消え、亜里沙と清水の二人だけになった。

没入型感性深化ISCは、没入型感性検査ISTを応用した、感性トレーニング技術です〉

聞き馴染みのある声でアナウンスが響いた。

〈このトレーニングでは、パートナーの感性を疑似体験することで、印象分解能の向上を促します。テスト空間内では、通常の没入型感性検査ISTを受ける際と同じく、リラックスして、思うがままに行動してください。開始まで、三、二、一──〉

霧が晴れると、そこはあの街丶丶丶だった。

常に変化し続け、いつまでも見慣れないが、どこか懐かしい架空の都市。無数の気づきや違和感を隠した大通り。隣に清水はおらず、亜里沙は雑踏の中に一人だった。

この空間には慣れているはずなのに、奇妙な感覚が拭えなかった。

とりあえず歩き出したが、なんとなく、足の置きどころが定まらない。

視界が僅かに揺れて、植え込みが目に入った。

その瞬間、ぐっ、と注意が惹きつけられた。

紅葉した細かな枝の一本一本が、こちらに何かを主張していた。

先端がチクチク丶丶丶丶している。

何も違和感はないのに、目が離せない。好奇心と、別に見たいわけでもないという気持ちが、ないまぜになっていた。

そのうち、眠気が徐々に覚めるように、気づきが浮かんできた。

チクチク丶丶丶丶の間に、何か違うものがある。

トゲトゲ丶丶丶丶や、ツンツン丶丶丶丶が混じっている?

そう口に出してみると、カチリ、と音がした。

景色が変わる。同時に清水の声が耳元に届いた。

「その調子だ。自分の感性を覗かれているようで、少し恥ずかしいね」

その言葉の意味を飲み込むと、ゾクゾクとした震えが亜里沙の身体を走った。先ほどのアナウンスが脳裏に蘇った。

──このトレーニングでは、パートナーの感性を疑似体験することで、印象分解能の向上を促します。

わたしは今、彼の目に導かれて植え込みの枝を見た。そして、これまでは完全に見過ごしていた、微細な印象の違いに気づいた。自分で気づいたというより、枝の方が変化して気づかせただけなのかもしれない。それでも今、たしかに、彼の見方で世界を垣間見た──。

そう思った瞬間、アンビバレント・ロココというただの概念の奥に、清水慎二という人間が見えた気がした。


それからの日々は、慌ただしく、またたく間に過ぎた。

ごく小規模のチームだと清水が言った通り、ゲーム制作の大部分は二人だけで進んだ。デザイナーとエンジニアはそれぞれ別の開発室と兼任で、第六開発室のオフィスには週に一、二度しか現れない。清水も亜里沙も自分で開発ソフトを操作し、簡単なコードを書き、AIの助けも借りて広大な洞窟の空間を編集した。

明確な顧客ターゲットを定めない実験的プロジェクトとはいえ、清水の開発姿勢に妥協はなかった。プロジェクトに対する亜里沙の疑問は次第に薄れ、いつしか、ただ開発に没頭するようになった。

その間、清水とのコミュニケーションは徐々に、しかし振り返ればはっきりと分かるスピードで、変質していった。


「プレイヤー同士が接触したときに発生する光を、船の上から見る日の出みたいにしたいんだ。君はどう思う?」と清水が訊く。

〈──光を、疲れ切った帰り道にふと声をかけられたときのように、じわりと温かい感じにしたいんだ〉と感性翻訳が続く。

「でも、そのときの音は涼し気な風鈴みたいな音ですよね。これって......合いますか?」と亜里沙が慎重に返す。

清水が感性翻訳にじっと耳を傾け、うーん、たしかに、と考え込む。

最初は万事、そんな調子だった。感性翻訳がなければ清水の意図が理解できず、鍾乳石の形状一つさえ決めることができなかった。その分だけ、没入型感性深化ISCの都市で知るアンビバレント・ロココの世界は、亜里沙には新鮮な違和感に満ちていた。


「地底湖を泳ぐときのクロールは、波打ち際じゃなくて、沖合のブイの印象にしたいんだけど、どうしたらいいかな」と清水が相談する。

〈クロールは歓迎の拍手より、別れ際に手を振る感じにしたいんだけど──〉と感性翻訳が言い換える。

「それってつまり、襲歩ギャロップじゃなくて速歩トロットのイメージですか」と亜里沙は言いながら、もうキャラクターの動作モーションに修正をかけている。

おお、そういうのもいいね、と清水が喜ぶ。


段々と、感性翻訳が邪魔だと感じることが増えた。AIが言い換えた清水の言葉より、自分が理解した清水の言葉の方が、正しくて深いと感じることが増えた。没入型感性深化ISCの中では、清水の見方に無理やり誘導される感覚は薄くなった。通常の没入型感性検査ISTを受けるときの感覚に、徐々に近づいていた。


「この鍾乳洞は死のイメージを強く喚起したいよね」と清水が言う。

「山火事の焼け跡に雨が降るような感じ──ですか?」と亜里沙は応じる。

「なるほど、そうだね、針葉樹林の焼け跡だ」と清水が参考資料を探しはじめる。


四カ月が経つ頃には、もう感性翻訳はほぼ必要なくなっていた。

その頃には当初の遠慮はなくなり、亜里沙は造形や音響に関するこだわりを次々と口に出した。二人の意見が一致するたびに、ゲームが正しい方向に発展する手応えを得た。
共同作業は忙しく、楽しく、何も問題はないはずだった。

しかし五カ月が経つ頃、得体の知れない不安が亜里沙を苛みはじめた。

不安が一気に顕在化したのは、ある土曜日の夜だった。

亜里沙はその夜、『ダーク・グリーン・パッセージDGP』にログインしたのだった。

仕事の忙しさにかまけて、ここ二カ月は全く触れられていなかった。苦い記憶をいつまでも蒸し返したくないという理由もあったのかもしれない。ゲームの運営は別の担当者が引き継いでいて、亜里沙は今やプレイヤーの一人にすぎなかった。

それでも、自分が心血を注いで作った世界に帰りたいと思う夜はある。ログインしてみると、薄暗い森の様子は何も変わっていなかった。太い枝と樹冠が作る壮大な穹窿ヴォールトが亜里沙を出迎えた。プレイヤーは少し減ったかもしれないが、それでもまだ少なくない人々が遊んでいる。敗北のショックが遠のいた今は、純粋にありがたいと感じた。

周囲の音を聞き、深呼吸してくつろごうとした。

なぜか、うまくいかなかった。

自分の感性を形にした世界のはずなのに、ここが自分の場所だとどうしても思えなかった。知らない間に妙な更新アップデートが入ったのかと確認するが、それもない。木々も、下生えも、走り回るプレイヤーたちの動作モーションも、すべて過去の自分が作り込んだままだった。

だとしたら──変わったのは自分の方かもしれない。

そう考えた瞬間、自分の中にある強い不安を直視してしまった。

今日は調子が悪いだけだと無理やり思い込んで、その日は寝た。翌日の朝、昼、夜と、三度ログインした。その度に、足元がぐらつくような不安が膨れ上がった。

「それは、印象選好度が変化したのかもしれないね」

月曜日に奥田室長を問いただすと、彼女はのんきにそう言った。早朝から管理職の会議があったらしく、アバターでも眠たげな様子が分かった。

没入型感性深化ISCは、印象分解能を高めるための技術じゃないんですか」

「もちろん、そうだよ。でも、分解能と選好度は完全に独立のものじゃないでしょう。ありふれた変化だよ。ただ、それが早まったということだね」

〈違いが分かると好き嫌いも変わるし、好き嫌いは違いの見分け方に影響するでしょう〉と感性翻訳が囁いた。〈人間には常に起こっている変化だよ。ただそれが没入型感性深化ISCで加速しただけで──〉

「だから、どうでもいいっていうんですか」

亜里沙の語気に押されたのか、奥田室長は目を見開いた。

「室長、たしかにわたしは没入型感性深化ISCを受け入れました。清水さんの感性を学ぶのが楽しいとも思いました。でも、『DGP』はわたしにとって、大事な作品だったんです」

こんな大事にまともに取り合わない室長に怒っているのか。あるいは、こんな些事に揺れ動く自分自身に呆れているのか。自分の動揺の理由がはっきりとは分からないまま、亜里沙はその場を後にした。


仕事は仕事だ。清水と議論し、ついに全貌が見えてきた洞窟に手を入れている間は、割り切れない思いをしばし忘れることができた。しかし夕方をすぎ、没入型感性深化ISCの時間が近づくと、自分の表情が曇っていくのを自覚した。

「小泉さん、大丈夫? ここ最近ずっと、痛みに耐えてるみたいだ」

清水が静かな調子で気遣ってくれた。

その問いかけがすっと心にしみてきて、亜里沙は自然と口を開いていた。

『DGP』に対する思い入れをこんなに深く人に話したのは、初めてのことかもしれない。あのゲームは苦い過去だが、それでも、自分自身そのものというべき作品だったのだ。

開発が終わってから、まだたった一年あまり。そんな短い期間で、自分は『DGP』の世界を居心地悪く思うほど、別人になってしまった。没入型感性深化ISCによって変質してしまった。それが亜里沙の不安の正体だった。

訥々と話し終えると少し胸が軽くなった。

「僕にも覚えがあるよ」

清水はしばらく沈思した後、そう言った。

「『ジャーニー・オブ・メタ・スネイルズ』の一作目が完成したとき、自分は一生これを作っていくんだと思った。これこそ僕の感性の表現だ、と。でも結局、シリーズは三作で終わってしまった。会社の事情じゃない。周囲の期待に押しつぶされそうになって、もがくうちに、僕自身の感性が変わってしまったんだ。それに気づいたとき、自分らしさを見失った気がして、喪失感と心細さに苦しんだ」

「でも、清水さんはずっとアンビバレント・ロココだったんじゃ──」

「そうだね。でも感性タイプというのは大雑把な分類にすぎない。この十年のうちに、感性コードの細部ディテールは随分変わったんだよ。僕にとって『メタ・スネイルズ』シリーズは他人の作品のようなものになっていた。没入型感性深化ISCを受ける以前からね」

清水は遠い過去を回顧するかのように目を伏せた。

「清水さんは、どうやってそれを乗り越えたんですか。乗り越えられたんですか」

訊くと彼は顔を上げ、思いがけない言葉を返した

「感性って、本当にそんなに大事なものだろうか」

「どういうことですか」

「感性コードが僕たちの本質なんだろうか。分解能や選好度が変わったら、僕自身が変わったということになるんだろうか。そのことをずっと考えていたんだ」

その口調は、自分自身に語りかけるようでもあった。

「僕はこの会社に勤めて二十年になる。その間に、僕や君のような人を沢山見てきた。自分の感性に誇りを持って、大事にして、その結果として苦しむ人を」

亜里沙の脳裏に、一年前の記憶が蘇った。『DGP』の売上と同時接続プレイヤー数が集計され、自分の感性の敗北を悟って打ちのめされた日の記憶が。

「感性検査や感性コードや感性マーケティングは、僕らに新しいチャンスをもたらした。でも、いつの間にか、感性が僕らを縛るようになってしまった。だから、奥田さんが語る没入型感性深化ISCの可能性に惹かれたんだ。それを自分で確かめたいと思った」

「可能性って──感性を混ぜ合わせて、斬新なゲームを作れるということですか」

「それも大事だけど、本当の目的は別にある。僕らは没入型感性深化ISCを、自分自身を見つけ直すための技術にしたいんだ。自分らしさを消し去る技術ではなく、ね」

そこまで言うと、清水は大きくのびをして、明るい口調で続けた。

「ごめん、これまで説明が足りなすぎた。僕と奥田さんの悪い癖だ。明日、彼女の口からきちんと話してもらおう。そのために、今日は没入型感性検査ISTを受けておいてほしい」


翌日、清水と亜里沙を見上げて、奥田室長は困ったような表情を浮かべた。

「小泉さんには、余計な事前情報はなしでこのプロジェクトを味わってほしかったんだけどなあ」

「でも、苦しめたいわけじゃないでしょう」

清水が、親密さを滲ませながらも鋭く言った。

「彼女は自分の身をもって感じて、考えた。もう十分でしょう、奥田さん」

まあ、そうだね、と奥田室長は言って、神妙な顔で亜里沙に向き直った。

「小泉さん、済まなかったね。私はいつも言葉が足りなくて、感性翻訳に頼りすぎる。昨日は君を傷つけてしまった」

「いえ、わたしの方こそ、昨日は感情的になりすぎました」

うん、と奥田室長は頷いて、いつものようにニヤリと笑った。

「では本題に入ろうか。君が参加しているプロジェクトには、目的が二つある。一つは知っての通り、感性マーケティングの分類を超えた、新しい感性のゲームを作ること。既存の枠組みに合わせるだけでは、エステシアにも業界にも、先はないからね」

彼女は亜里沙と清水を交互に見た。

「そしてもう一つの目的は──エステシアの人事制度を変えることなんだ」

「人事制度、ですか」

奥田室長は頷いて、手元を操作した。

彼女の周囲に散乱していた書類が浮き上がり、飛び交い、またたく間に整理されて三人を取り巻いた。

数百枚におよぶそれは、感性コードだった。エステシア社員の過去と現在の記録だ。亜里沙にとって、これほど多くの感性を一度に目の当たりにするのは初めてのことだった。

「私は長年、この会社の人事部で感性活用に取り組んできたんだ。徹底した実績主義がうちの特色だけど、それだけでは人の力を活かせない。一人ひとりの個性と才能が大事にされる組織を作りたかった」

奥田室長は目を細め、感性コードをぐるりと見回した。

「何百、何千の感性コードを通して、この会社の人々を見てきたよ。その中で、違和感というか、不安というか、居心地の悪い気持ちが膨らんでいった。あるとき思ったんだよ。実績主義と感性活用を組み合わせた結果、エステシアは徐々に疲弊しているのではないか、と」

彼女が手を振ると、無数の書類の中から十数枚が手前に選び出された。

それは亜里沙の感性コードだった。八年前の入社時のものから、昨日検査したばかりの最新のものまで揃っていた。

「小泉さん、私は今も『ダーク・グリーン・パッセージDGP』で遊んでいるんだよ。いいゲームだね。あの森には深い感傷がある。落ち着くよ」

「でも、室長の感性は──」

驚いて亜里沙が返すと、彼女は首を振った。

「もちろん、トールスクリーン・ゴシックには当てはまらない。でも、だからこそ新鮮なんだよ。感性が違っても、君が『DGP』に注いだ思いは十分に伝わる。売上が期待ほど振るわなかったからといって、決して失敗作なんかじゃない。私はお世辞は言わないよ」

なんと答えるべきか分からず、亜里沙はぎこちなく、小さく頭を下げた。

顔を上げると、奥田室長の目は真剣だった。

「問題は、なぜ君がひどく打ちのめされ、疲弊してしまったのか、だよ」

「それは......」

「競合に及ばなかったと分かったとき、君はどう感じた?」

「......自分自身が、否定されたと思いました」

「なぜだと思う? そこが肝心なんだ」

亜里沙はしばし考えた。

「たぶん、わたしの感性そのものが仕事道具で、商品だったからです。そして──感性はわたしそのものだから」

言葉にしてみると、思いがけず自分自身に響いた。

奥田室長は頷いた。

「感性マーケティングが広がった社会では、仕事の成功や失敗が感性と直結する。そして私たちはつい、感性を自分らしさと直結させてしまう。それが君の味わった苦しみの原因だと、私は思った。だから君の感性と、君の本質を、切り離してあげたいと思った。君だけじゃない。ほかのエステシア社員にも、今の世界の誰にだって、そういうことが必要なんだと思った。私はね、没入型感性深化ISCで都合よく人を変えたいんじゃない。変化を通して、その人らしさを発見するための技術にしたいんだよ」

「そんなこと、可能なんですか」亜里沙は思わず尋ねた。「感性がわたしそのものでないなら、何がわたしだというんですか」

奥田室長はそれに対して、少し気まずそうに微笑んだ。

「正直にいえば、難しい。でもね、仮説はあるんだ。これを見て」

彼女が手元を操作すると、亜里沙の感性コードのうち、二枚が並べられた。一つは第六開発室に異動する直前のもの。もう一つは、最新のものだ。

比べてみると、この短期間での変化は劇的だった。部分的に印象分解能が高まったのが一目瞭然だ。以前は存在した太いバーのいくつかが消え、今は繊細なバーの集まる領域になっていた。

さらに室長が手元を動かすと、二つの感性コードの中から、十数の印象項目が選び出された。ほかの数百の項目を示すバーの色は薄れ、ついに消え去った。残された項目はすべて、新旧の感性コードで対をなしていた。

「じっくり見てみて。何が分かる?」と彼女は亜里沙を促した。

「分かりません。何も変わっていない──ような気がします」

「その通り。これらはね、没入型感性深化ISCを受けた期間も含むこの九年弱の間、分解能も選好度もほとんど変化しなかった丶丶丶丶丶丶丶丶印象項目なんだ」

十数対のバーが拡大され、亜里沙の目の前に表示された。

「なぜ、ある項目はすぐに影響を受け、ある項目はそのままなのか。私はね、そこに本当の君らしさが隠れていると思うんだ。いわば、感性のあり方を決めるメタ感性丶丶丶丶。あるいは君の世界を規定するフレーム丶丶丶丶と言ってもいい」

亜里沙は、十数本のバーをまじまじと見た。見慣れた自分の感性コードだから、それら一本一本がどんな印象と対応するか、すぐに思い出せた。

上方にある、細い「やわらか#24」のバー。わたしはふわりと風を孕むシャツのやわらかさが好きだ。

その下にある、糸のような「憂愁#35」のバー。わたしはブルースの和音コードのような明るい物悲しさが好きだ。

ずっと下の方にある太い「緻密」のバー。たしかに、わたしは清水さんと半年を過ごしてもなお、彼の行き届いた論理や均整の美を理解できていない。

たった十数の印象項目に、何分もかけて目を通した。

自分の本質の一端だと信じるには、頼りなく、ささやかすぎるかもしれない。

それでも、錨のようなものが静かに胸の奥に下ろされたような感覚があった。

「自分らしさって、こんなものなんですか」

「ごめん。やっぱり、これだけじゃ不安だよね」

奥田室長が眉を落として、心配げに訊いた。

「いえ。意外と......こんなものでいいのかもしれません」

感性コードのほんの一部。変化の中にかろうじて垣間見える、変わらない自分らしさ。笑ってしまうほどささやかだけれど、その項目一つ一つを愛せるような気がした。

「少なくとも、変わらないものがあると信じられるなら、今はそれでいいです」

そうか、良かった、と室長は微笑んだ。

亜里沙は改めて、自分の感性コードの全体を見た。人生や運命や自分自身そのものにすら見えていたその図が、今はありふれたバーコードに見えた。

亜里沙と清水のゲームは、翌年の春に無事完成した。

完成版は、清水のプロトタイプから様変わりしていた。静かな暗闇が広がるはずだった空洞は、蜘蛛や蝙蝠や鼠や茸でにぎやかな広場になった。稠密な鍾乳石に覆われた横穴は、細い光の柱が差し込む聖堂になった。アンビバレント・ロココでも、トールスクリーン・ゴシックでもない。まだ名前のない感性の予感に満ちたゲームだった。

『パッセージ』と名付けられたこの作品は一般販売されることはなかった。しかし亜里沙の予想に反して、ただの実験作で終わることもなかった。エステシアが人事制度改革を発表するイベントの会場として使われたのだ。

「感性は当社の最も重要な経営資源であり、感性マーケティングは当社の最も重要な経営戦略です。しかし、そのことは、社員の人生をビジネスの道具にすることとは違います。社員の個性を商品のパーツにすることとは違います。当社は感性でエンターテインメントの最前線を切り開く企業として、感性と個性を区別した組織づくりに乗り出します。没入型感性深化ISCによって感性を互いに学び合い、感性を流動化することで、社員一人ひとりの深い個性を発見する組織を目指します」

エステシアのメッセージは、世間にすぐに理解されるものではなかった。同業他社には疑問を投げかけられ、経済メディアには好き勝手に批評された。新たな制度を作り上げるには、まだ沢山の検討と議論が必要だった。

だから『パッセージ』は、ただの発表の場ではなく、企業の壁を超えた議論の場として使われ続けた。様々な業界の関係者や、研究者、記者、転職希望者、新入社員、近隣住民。毎日誰かがあの洞窟に足を踏み入れ、暗闇や僅かな光の中で話し合った。没入型感性深化ISCを通じて作られた世界を味わい、驚き、感激したり呆れたりして帰った。いつしか、洞窟はエステシアの代名詞の一つになった。


「さて、君のキャリアについてだが」

仮想空間バーチャルの面談室で、奥田室長は亜里沙に問いかけた。

「希望を聞いておきたい。また第一開発室に戻りたい? それとも別の部署? なにしろ、没入型感性深化ISCを本格的に受けた社員は初めてでね。会社としても考えどころなんだ」

「清水さんはどうなんですか?」

「ここだけの話だけどね、彼、独立するんだ。最後にこのプロジェクトだけは関わりたいと言っていたけど、一旦は区切りが付いたからね」

亜里沙は驚き、納得し、それから考え込んだ。

以前の自分なら、第一開発室に戻り、リベンジしたいと言っただろう。今度こそ自分の感性を──自分自身を証明したいと。しかし今、脳裏に浮かんでくる言葉は違った。

──今回の異動の意図は、この会社エステシアというコミュニティをより深く知ってほしいということだ。

一年と数カ月前に、第一開発室の室長に言われたことを思い出す。正確には感性翻訳の言葉だが、この際、どちらでもいい。その真意こそ重要なのだ。

──フェアで新しい組織像に惹かれたんです。

さらにずっと前、転職面談で自分が言ったことも思い出した。

結局のところ、エステシアに惹かれる理由はそこなのだ。

「奥田さんって、元々は人事部だったんですよね」

そう切り出すと、奥田室長はニヤリと笑った。実は最初から、亜里沙の希望などお見通しだったのかもしれない。食えない人だ。


面談室を出ると、海辺を模した第六開発室の空間を、亜里沙はゆっくりと散歩した。

株式会社エステシアのオフィスは仮想空間バーチャルなのだから、天気も季節も関係ないはずだ。しかし今日ばかりは、新しい空気に満ちている気がした。