更新日:2026/04/03
現在の情報通信技術は、人々の生活や経済活動の基盤となっており、その情報処理の多くは電子によって担われています。近年では、電子が持つ電荷以外の性質に着目した研究が進み、二次元半導体の登場により、「バレー」と呼ばれる新たな自由度が注目されています。バレーは光の偏光と強く結びつき、新しい情報処理や光機能の創出につながる可能性を秘めています。今回はこの二次元半導体におけるバレー物性の解明と制御に挑む、眞田治樹特別研究員にお話を伺いました。
私たちが普段使っているPCやスマートフォンの内部では、情報処理や無線通信のためにシリコンやガリウムヒ素といった半導体材料が使われています。これらの半導体は、原子どうしが共有結合によって三次元方向に規則正しく結びついて結晶を構成しています(図1(a))。これに対して近年大きな注目を集めているのが、原子が面内方向にのみ結合した二次元層状物質と呼ばれる材料で、その中でも半導体の性質を持つものが二次元半導体です(図1(b))。これらの物質は通常、多数の層が積み重なった構造になっていますが、お菓子のパイ生地のように層と層は簡単に剥がれます。理論的には、こうした層状物質を究極的に薄い「単層」にすることで、三次元の結晶では現れない新しい物理現象を生じることが以前から予想されていましたが、単層のみを実際に取り出すことは長らく困難でした。その状況を大きく変えたのが、2004年に、のちにノーベル賞を受賞することになる研究者らによって報告された、層状物質であるグラファイトから単層のグラフェンを剥離する手法です。この発見を契機に、二次元半導体を含む二次元物質の研究が爆発的に発展しました。
「バレー」を理解するためには、固体物理学で用いられる「エネルギーバンド図」という概念が関係してきます。エネルギーバンド図とは電子の運動エネルギーが運動量によってどのように変化するかを表したもので、その形は材料によって異なります。バレーはこのエネルギーバンド図に現れる極小値、すなわち「谷」の部分のことを指し、電子はそこに集まりやすいという性質があります。二次元半導体のエネルギーバンド図には、図2(a)で示すように「Kバレー」および「K'バレー」と呼ばれる2つの深いバレーが存在し、これらが従来の半導体とは異なる物理現象を生み出すことが分かってきました。KバレーおよびK'バレーでは、電子の波の位相が進む方向が結晶の特定の方向と対応しています(図2(b)上図)。
図2(b)下図は、KバレーとK'バレーにある電子について、電子の波が進む方向から結晶を見たときの様子を比較したものです。同じ結晶であっても、電子の波の進む向きによって前方に見える原子の並び方が異なって見えることが分かります。このため、エネルギーが同じでも、Kバレー、K'バレーの電子は互いに異なる状態として区別され、このことがバレーの新しい自由度としての可能性が注目される理由です。
ちなみに、同じように電子が持つ自由度として比較的よく知られているものに「スピン」があります。スピンは電子の自転に相当する性質であり、量子力学における基本的な概念の1つです。スピンは右回り・左回り(アップ・ダウンとも呼ばれます)という2つの状態を取り得る自由度で、これを活用しようとする研究分野がスピントロニクスです。
「バレー」もこのスピンとよく似た位置付けの自由度ととらえることができます。バレーの自由度を利用しようとする研究分野は「バレートロニクス」とも呼ばれ、活発な研究が進められています。二次元半導体では、電子が2つのバレーのどちらに存在するかによって物理的性質が変わります。このバレーを識別し、自由に制御できれば、新しい物理の理解や将来の情報処理などへの応用につながると期待されています。
通常、情報処理においては、電子が持つ負の電荷があるかないかを「0」「1」で表すデジタル処理を行っています。これに対して、「スピン」の向き(自転の回転方向)や「バレー」(どのバレーに存在するか)という性質を「0」「1」に対応付けて情報として利用できるのではないか、というのが基本的なアイデアです。ただし、現在は「スピン」や「バレー」は半導体素子の中ではほとんど使用されていません。これらの状態は通常ランダムに分布しており、そのままでは情報として安定に扱うことが難しいためです。
それでもなお、スピンやバレーが多くの研究者を惹きつけている理由の1つが、これらが量子力学的な状態であり、「重ね合わせ」という性質を持つ点にあります。これは、単に2つの状態のいずれかを取るだけでなく、それらが重なり合った状態を同時に持ち得るということです。この性質により、現在用いられている「0」「1」に基づく情報処理とは異なるかたちで、新しい情報の扱い方や機能の創出につながると期待されています。
二次元半導体の特に重要な特徴の1つが、バレーが光の円偏光と強く結びついている点です。図3に示すように、右回り・左回りの円偏光を使い分けることで、特定のバレー状態を選択的に生成し、観測することが可能になります。このように、光を介してバレーを直接操作できることは、従来の半導体にはない大きな特徴です。
さらに、バレーが光と結びつくことで、その情報を光として取り出したり、光の伝搬方向や偏光と結びつけて制御したりすることも可能になります。こうした性質に着目し、私たちはバレーと光の相互作用を軸として、新しい光学機能や物理現象の創出に挑んでいます。
光を用いてバレーの自由度を観測・制御するための技術は、元々は私たちの研究チームで10年近く取り組んできた電子スピンを対象とした研究の中で培われてきました(1)。電子スピンは目に見えない自由度ですが、その状態をとらえる手段がなければ、理解や制御は困難です。そこで私たちは、まず電子スピンを光学的に可視化する手法の確立に取り組みました。その中で確立した方法が磁気光学効果を用いた独自のアプローチです。この方法を用いると、スピンがどのように生成し、どのような時間・空間スケールで変化するかを直接とらえることが可能になりました。さらに、外部磁場を用いない電子スピン共鳴など新しいスピンの制御方法を見出すことにもつながっています(2)(3)。そして現在では、こうして培ってきた光学的手法を二次元半導体にも展開し、バレーという新たな自由度の観測・制御の研究に応用しています。
この研究は、同じ研究グループのイタリア人研究者ジャコモ・マリアーニ氏とともに立ち上げ、実験を進めてきたものです。基板上に開けた微小な穴の上を二次元半導体の単一層で覆うことにより、周囲の材料に一切触れない「サスペンド単層膜」を作製し、外部環境の影響を極力排除した状態でバレーの本質的な振る舞いを明らかにすることをめざしました。
具体的には図4左に示すように、シリコン基板の上にチタンと金の薄膜を形成し、その上にさまざまなサイズの穴(例えば直径10μm、深さ0.8μm)を加工します。この基板の上を二次元半導体であるWSe2(二セレン化タングステン)の単層膜で覆います(4)。単層膜は大変デリケートであるため、大面積でかつ穴を覆う状態の単層膜をつくる技術自体が大変難しく、クリーンルーム内で試行錯誤を重ねることでようやく実現することができました。図4中央と右は、作製したサスペンド単層膜の光学顕微鏡像および電子顕微鏡像です。
こうして作製したサスペンド単層膜を、液体ヘリウムを利用した真空・極低温(約マイナス269 ℃)の環境に設置し、磁気光学効果を利用した光学的手法によってバレーの偏極状態(偏り具合)を測定しました。その結果、バレーの生成や緩和といった物理過程を詳細に調べることが可能になり、従来は間接的にしか分からなかったバレー物理の理解が大きく進展しました。
さらに、サスペンド単層膜に加える電圧を変化させることで、バレーの偏極効果をどの程度持続させられるかを調べる実験を行いました。ゲート電圧‒20V(ボルト)では、偏極状態はすぐに解消されますが、‒60Vであれば偏極効果がより長時間維持できるということが分かりました(図5)。これらの結果は、バレーの自由度を活用した新たなデバイス応用の可能性を広げる発見だと考えています。
私たちは基礎科学の立場から、世界中の研究機関と競争や協力をしながら、二次元半導体におけるバレーの物理の解明に挑んでいます。誰も見たことのない現象に正面から向き合うことは、科学の発展に寄与するだけでなく、今とは全く異なる将来の技術や新しい概念を生み出す原動力にもなり得ると信じています。二次元半導体もこれまでは基礎的な研究が進められてきた材料ですが、近年では半導体の微細化の限界を背景に、実用化につながる研究報告も現れ始めています。
バレーがもたらす高速性や制御性という特性は、IOWN(Innovative Optical and Wireless Network)のフォトニクスとの親和性も非常に高いと考えています。将来的にはNTTが進めている「チップ内光通信」などと融合する可能性もあり、光と強く結びついた機能物性という観点から、IOWNにつながる要素を持つ研究だととらえています。
本分野は世界的にも非常に活発であるからこそ、自分たちの独自の研究成果を積極的に発信し、「ぜひ一緒に研究をやりたい」と自然に研究者が集まってくるような存在になることを強く意識しています。研究者どうしのコミュニケーションやコラボレーションを通じてできることを広げて、将来的には「バレー」と「フォトニクス」を融合した新しい研究分野を牽引できる立場に到達できればと考えています。
私がこの研究分野に進んだ原点は、大学時代の講義の中で初めて耳にした「スピントロニクス」という言葉でした。半導体の中にはスピンといういまだ活用されていない性質があり、それを使って新しい機能が生み出されるかもしれない、その発想が非常に新鮮で、強く惹きつけられました。その講義を担当されていた先生の研究室に入り、博士課程では半導体中のスピンを光学的なアプローチで測定するという研究に取り組みました。
ちょうどそのころ、NTTの研究者もこの分野で次々と先駆的な成果を発表していました。自分が取り組んでいる研究分野の最前線がそこにあると感じ、「この環境で研究を行いたい」と自然に思うようになったことが、NTTに入社した大きな理由です。
研究について大事にしていることは、考えたことを必ず実験で確かめ、そこから新しい問いを引き出していく姿勢です。予想外の問題にも直面しますが、それらを1つずつ解決していくというプロセスに研究の醍醐味があると感じています。また、得られた結果を論理的に言葉として整理し、自分たちの成果がどのように寄与するのかを明確にして世界へ発信していくことも、研究者に課された役目の1つだと考えています。
私たちの研究グループでは欧州の大学生をインターンとして積極的に受け入れるなど、国内外の若手研究者や学生とともに研究を進めています。後進を育てるという側面ももちろんありますが、なにより、異なるバックグラウンドを持つ仲間と科学の面白さを共有することに大きな価値を感じています。そうした積み重ねをとおして、日本ひいては世界の基礎研究、基礎科学を前進させる力になると考えています。
NTT物性科学基礎研究所は、ネットワーク技術の壁を越える新しい原理やコンセプトの創出、未来のイノベーションにつながる基礎技術開拓、NTTの事業への貢献にとどまらず普遍的な知見の獲得をめざしています。多元マテリアル創造科学、フロンティア機能物性、量子科学イノベーションという3つの柱を立てて研究活動を行っており、研究者の知的好奇心を原動力として研究を推進しています。それぞれの分野で世界最先端を走る研究者が多数所属しているため、大きな刺激を受けられる環境です。
私の研究グループは実験研究を主体としており、ほぼ毎日出社して実験に勤しんでいます。一方で、個々の研究のフェーズやライフステージに応じてリモート勤務を柔軟に取り入れているメンバもいます。外国籍の研究者や共同研究先の学生も在籍しており、日々活気のある議論が行われている研究グループです(写真)。
この数年はコロナ禍の影響もあって、実際に手を動かしたり人と直接議論したりする機会が限られていた若い方も多かったと思います。ようやく社会が落ち着いて元に戻ってきたので、若い学生や研究者の方たちには、これまでできなかったさまざまなことへ積極的に挑戦してほしいです。
私は研究においては人とのコミュニケーションがとても大事だと考えています。多くの人とかかわり、一緒に科学を楽しめる仲間を意識して増やしていくことが、将来の日本の科学の発展にもつながるのではないかと思います。そして、二次元半導体やバレートロニクスに興味のある方はもちろん、誰も見たことがない現象に挑戦したいと考えている基礎研究を志向する研究者の方々は、ぜひNTT物性科学基礎研究所の門を叩いてみてください。私たちとともに、未知の物理現象の解明に向けて新たな扉を拓いていきましょう。
2005年東北大学大学院 工学研究科電子工学専攻 博士後期課程修了。同年、日本電信電話株式会社入社。半導体のスピントロンニクス研究に従事。2011年7月ポールドルーデ固体エレクトロニクス研究所 客員研究員。2015年3月チャルマース工科大学 客員研究員。2019年NTT物性科学基礎研究所 総括担当。2022年量子光デバイス研究グループ グループリーダ。2014年第4回 RIEC Award受賞。2016年文部科学大臣表彰 若手科学者賞受賞。