更新日:2023/09/08
現在の量子ハードウェアは計算エラーの影響が非常に大きく、量子コンピュータから有意義な結果を取り出すためにはエラーの削減が必須です。現在、符号化などを行わず、量子ハードウェアへの負担を少なく保ったまま計算エラーの削減を行うことが可能な量子エラー抑制手法が世界中でさかんに研究されています。本稿では、主要な量子エラー抑制法のレビューを行った後、最近、私たちの研究グループから提案された世界で初めての量子エラー抑制を組み込んだ量子センシングおよび量子エラー抑制の統合フレームワークである一般化部分空間展開法について解説します。
遠藤 傑(えんどう すぐる)
NTTコンピュータ&データサイエンス研究所
量子コンピュータはさまざまなところで説明されるように、量子的重ね合わせが失われることによる計算エラーの影響を抑えることが喫緊の課題となっています。本稿で解説する量子エラー抑制は、比較的最近提案された量子ハードウェアに対する負担をできる限り少なく保ったまま計算エラーを抑制する概念です(1)。量子エラー抑制とよく比較される量子エラー訂正では、複数の物理量子ビットを用いて1つの論理量子ビットを表現し、その冗長性を用いて計算エラーを検出し、その情報を基にしてエラーを能動的に訂正します。しかし、現在の量子ハードウェアの量子ビット数は多くて数百であるため、量子エラー訂正を行うと実効的な量子ビット数が少なくなってしまい、量子ハードウェアの持つ計算能力を活用しきれないという問題があります。そこで、冗長化を避け、実効的な量子ビット数を減らすことなく計算エラーを削減することができる一連の手法である、量子エラー抑制が導入されました。量子エラー抑制実装に関する進展はめざましく、最近IBMによって行われた、127量子ビットデバイスで初めて量子コンピュータで実用的なタスクを行うことができたと主張する実験論文において、量子エラー抑制が非常に有用な役割を果たすことが分かりました(2)。また、筆者が提案した指数外挿エラー抑制(3)が非常に高い性能を示すことが示されました。量子エラー抑制にはさまざまな手法が存在しますが、一般的には複数の量子回路からの出力を古典コンピュータにより事後処理することによって、正しい計算結果を推定することが行われます。その概念図を図1(a)に示します。
ここで、量子エラー抑制は一般的に量子状態そのもののエラーを抑制することはできませんが、物理量の期待値のエラーを抑制することができます。量子エラー抑制の働きを図1(b)に示します。しかしながら、現在の量子コンピュータ、および初期の誤り耐性量子計算で実行できることが期待されている多くの量子アルゴリズムが物理量の期待値を活用するアルゴリズムであるため、量子エラー抑制は大いに有用であると考えられています。また、量子エラー抑制のコストはより多くの測定回数であり、量子ハードウェアの計算エラーの発生頻度に対して指数関数的な測定回数が必要になることに注意が必要です。これは、直感的には、量子エラー抑制が、量子ゲート数と量子ゲートのエラー率に関して指数関数的に減衰する物理量の期待値を増幅する効果があるため、計算結果の分散が指数関数的に増加するからです。測定回数の指数増加に関しての証明は、量子情報理論的枠組みによって、私たちの研究をはじめとしたいくつかの研究で示されています(4)。以降では、量子エラー抑制法として主要な手法である外挿法(3)(5)、擬確率法(確率的エラー相殺法とも呼ばれる)(3)(5)、仮想蒸留法(6)、部分空間展開法(7)について説明します。次に私たちの最近の研究成果である、世界初の量子エラー抑制を適用した量子センシングの手法(8)、および極めて一般的な量子エラー抑制の統合フレームワークである一般化部分空間展開法(9)を解説します。量子エラー抑制の概要のみ理解したい方は、外挿法を理解すれば十分ですが、もう少し踏み込んで理解したい方は、せひその他のセクションも読んでいただきたいと思います。筆者が執筆したレビュー論文(1)も必要に応じて参照していただきますと、より深い理解を得られると思います。
外挿法は、その名のとおり、複数の測定結果を外挿することにより、計算エラーのない理想的な結果を推定する手法です(3)(5)。非常にシンプルではありますが、多くの実験で用いられる強力な手法です。その概要を図2に示します。横軸は計算エラーレート、縦軸は計算結果(物理量の期待値)です。当然ではありますが、計算エラーレートは自由に減らすことができないことが問題ですが、計算エラーを増加させることは比較的容易です。例えば、論理ゲート操作をあえてゆっくり行うこと、あるいは余分な論理ゲート操作を行うことで、計算エラー頻度を増加させることはできます。そして、元々の計算結果と、計算エラーレートを増加させた計算結果を外挿することによって、計算エラーのない理想的な計算結果を推定します。外挿法が提案された当初は、線形、および多項式関数により外挿するRichardson 外挿が提案されていましたが(5)、筆者らは計算結果が計算エラーの頻度に対して指数関数で減衰することが一般的であることを指摘し、指数関数による外挿を提案しました(3)。そして、実際の実験でも非常に高い性能を示すことが示されました(2)。しかし、外挿法は精度保証がなく、比較的ヒューリスティック(発見的)な手法といえます。
量子エラー抑制のコスト要因である測定回数の増加については外挿法でよく理解できるので、例として線形外挿法を考えます。計算エラーレートε0に対応する物理量の、実験的に得られた平均値を〈O(ε0)〉、エラーレートを2倍した物理量の期待値を〈O(2ε0)〉とすると、これらを外挿したエラー抑制された結果はOest=2〈O(ε0)〉−〈O(2ε0)〉と書けます。その際、分散を計算すると、〈O(ε0)〉と〈O(2ε0)〉に相関がないとすると、Var[Oest]=4Var[〈O(ε0)〉]+Var[〈O(2ε0)〉] となり、確かにエラー抑制後に分散が増幅され、正しい計算結果を得るにはより多くの測定回数が必要であることが分かります。
擬確率法は、量子ゲートの計算エラーの詳細をプロセストモグラフィやゲートセットトモグラフィなどのノイズモデルを得るための手法で特徴付けた後に、そのノイズを実効的に打ち消すような量子エラー抑制を構築する方法です(3)(5)。ノイズに対応する量子プロセスをεと書き(量子力学版の遷移行列だと思うと分かりやすい)、その逆変換をε−1と書きます。すると、ε−1は数学的に強引に構築しているだけなので、一般的に「物理的なプロセス」ではなく、直接実行することができません。そこで、ε−1を、私たちが計算エラーを少なく実行できる量子エラー抑制のための操作の集合{ℬk}kと考えることで、ε−1=Σkqkℬkと分解できます。普通{ℬk}kは単一量子ビット操作を仮定します。例えば、エラー確率pの脱分極ノイズ (デポーラライジングノイズ)εD(ρ)=(1− 3 4p)ρ+ p 4 (XρX+YρY+ZρZ)を考えると、その逆変換はεD−1(ρ)=(1+ 3p 4(1-p))ρ- p4(1-p)(XρX+YρY +ZρZ)となります。すると、 q0=(1+ 3p 4(1-p) ), q1=q2=q3=− ρ 4(1-p), ℬ0(ρ)=ρ, ℬ1(ρ)=XρX, ℬ2(ρ)=YρY, ℬ3(ρ)=ZρZです。ここで、Σkqk=1であり、ε−1が一般的に物理的なプロセスでなく、qkが負になり得る擬確率なので、この手法を擬確率法と呼びます。当然、負の確率は直接実行することはできませんが、これは測定結果の事後処理を行うことによって実効的に「負の確率でサンプルすることができた場合と同じ」期待値を計算することができます。例として、シンプルな1量子ビットの系を考えます。この場合の概念図を図3(a)に示します. 理想の量子状態はρideaℓ=U|0〉〈0|U†ですが、脱分局ノイズεDの影響を受け、実際の量子状態はρnoisy=εD(ρideaℓ)であるとします。測定する物理量をOとすると、ノイズがない物理量の期待値〈O〉ideaℓ=q0Tr[ρnoisyO]+q1Tr[XρnoisyXO] +q2Tr[YρnoisyYO]+Tr[ZρnoisyZO]であるため、量子状態ρnoisy, そしてパウリ操作を行った量子状態 XρnoisyX, YρnoisyY, ZρnoisyZに対して物理量の期待値を測定し、擬確率の重みで足し合わせればよいのです。ここで、負の値を持つ擬確率が存在しても、測定結果に負の符号を乗じて事後処理を行うことで物理的ではない逆変換が構築できています。
しかし、実際には複数量子ビットの系で、量子回路中で逆変換を施すことが実用上は重要です。今、複数の量子ゲートのノイズεl(ℓ=1,2,...NG, NGはゲート数) に対して擬確率法を行う場合を考えます。この概念図を図3(b)に示します. このとき、それぞれのエラーに対して逆変換を構築し、εℓ−1=Σkqk(ℓ)ℬk=γ(ℓ)Σkpk(ℓ)sgn(qk(ℓ))ℬk(Σkpk(ℓ)=1, pk(ℓ)= |qk(ℓ)| γ(ℓ) >0, γ(ℓ)=Σk|qk(ℓ)|>1, sgn(qk(ℓ))=qk(ℓ)/|qk(ℓ)|)と変形します。 ここで、γ(ℓ)をコスト係数と呼びます。そして、それぞれの量子ゲートの後(これは定式化によっては前でもよい)で操作ℬkを確率pk(ℓ)で発生させ、符号の積πNGℓ=1 sgn(qk(ℓ))とコスト係数の積γtot=ΠNGℓ=1 γ(ℓ)を測定結果に乗ずればよいのです。そしてこれを繰り返し、積算した結果をエラー抑制された結果として得ます。その際、計算結果の分散はエラー抑制しない場合に比べ、おおよそγ2tot倍されるため、ゲート数に対して指数関数的に多くの測定回数が必要になります。
筆者らは、擬確率法の提案当初では整備されていなかった、適切な計算エラーの特徴付け方法、任意の計算エラーを取り除くために必要な量子エラー抑制のための操作の集合{ℬk}kを示しました(3)。また、ゲートモデルだけでなく、リンドブラッドマスター方程式 d dt ρ=−i[H, ρ]+Σk(2LkρLk†−Lk†Lkρ −ρLk†Lk)で記述されるような時間的に連続的なノイズモデルに対しても擬確率法が適用可能であることを示し、アナログな量子系に対しても量子エラー抑制の幅を広げました(10)。
仮想蒸留法はノイズのある量子状態ρnoisyのコピーを複数準備し、その間に量子もつれ測定を行い、その結果を古典コンピュータで事後処理することによって、ノイズのない量子状態をあたかも「蒸留」することができる手法です(6)。この手法の「古典的な」対応物を考えると、例えば計算ミスをよくする小学生たちの計算の正答率を高めるには、同じ問題を複数人に解いてもらって、皆の計算結果が同じだったときのみ計算結果を提出し、それ以外は棄却する、ということが挙げられます(図4(a))。計算にかかわる人数が増えれば増えるほど、正答率は高まります。ただし、成功確率(計算結果を提出できる確率)は人数に対して指数関数的にします。 仮想蒸留法では量子状態のコピーの数をnとすると、蒸留された量子状態ρvd= pnnoisy Tr[Yρnnoisy]に対応する物理量の期待値を計算することができます。 ここで、ρnoisy=Σkpk|Ψk〉〈Ψk|(p0≥p1≥...)と固有値分解した際、ノイズが小さい場合は、最大固有値に対応する固有状態が理想の量子状態の良い近似になっていることが予想されますが、ρnnoisyは コピー数nを増やしていくと、|Ψ0〉に漸近していきます。また、|Ψk〉(k=1, 2, ...) の寄与は、nに対して指数関数的に抑制されます。ただし、コピー数nに対して測定回数は指数関数的に増大し、それに伴いコストも指数関数的に増大します。この手法は計算エラーモデルについて情報がなくても、エラーが確率的なものであるなら、計算エラーを高精度に抑制できるという利点があります。ただし、量子ゲートの回転エラーや、変分量子固有値ソルバーのアンザツ量子回路の深さの不足による表現力不足に起因するコヒーレントエラーは、この手法ではいくらコピー数を増やしても抑制できません。
部分空間展開法は、射影演算子(厳密には射影演算子の数学的性質を満たしていませんが便宜的にそう呼びます)を構築し、ノイズのある量子状態をより正解に近い空間に射影する手法です(7)。量子コンピュータで計算を終えた後、測定結果を読み出す前の量子状態がノイズの影響で理想のものと異なる場合を考えます。例えば、近年さかんに研究されている変分量子固有値ソルバーは、分子などのエネルギーがもっとも低い基底量子状態ρG=|G〉〈G|を求める手法ですが、実際にはエラーの影響を受けた別の量子状態ρnoisyになり得ます。ここで、もしエラーのない量子状態への射影演算子pG=|G〉〈G|が構築できたとすると、射影確率をpGとして、 pGρnoisypG pG=ρGとなり、エラーを取り除くことができます(図5(a))。ただし、実際には|G〉が非常に大きい量子状態であることから、pGの表式をそもそも得ることができず、射影を正確に行うことはできないので、できる限りエネルギーが低い空間に射影できるような射影演算子(厳密には射影演算子の数学的性質を満たしていないが便宜的にそう呼ぶ)を構築することを試みます。そのような射影演算子をパウリ演算子とその積Pkを用いて、p=ΣkckPk(ckは複素数) と表現し、射影後の量子状態ρse= pρnoisyp p (pは射影確率)のエネルギーができる限り小さくなるように古典コンピュータで {ck}kを最適化します(図5)。ここで、どのようなPkを選ぶかは任意性があり、例えば分子の電子軌道の励起演算子などから構築する方法が提案されています(7)。この手法は、コヒーレントエラーはある程度抑制できますが、ビットフリップなどの確率的エラーの抑制には不向きであることが知られています。
私たちは、世界で初めて量子エラー抑制を量子センシングに適応するフレームワークを確立しました。量子センシングとは、量子状態をプローブとして用いて、測定したい磁場などと相互作用させ、相互作用した後の量子状態を読み出し、これを繰り返して結果を積算して、その結果から磁場の値を推定する量子情報分野です。量子センシングで重要となるのは、量子もつれ状態をプローブとして用いる場合、量子ビット数Nに対して、推定された統計誤差が古典では実現できない量子優位なスケーリングが実現できることにあります。しかし、ノイズが測定のたびに揺らいでいる場合は、積算値および推定される磁場の値に系統エラーが生じてしまい、量子優位性が得られません(図6(a))。私たちは、仮想蒸留法を用いれば、測定のたびにノイズが揺らぐような場合であっても、仮想蒸留法がこのようなノイズを取り除く「フィルター」としての役割を果たし、量子センシングで問題となる系統的エラーを高精度に抑制できることを示しました(8)。そして、量子優位性のあるスケーリングが復活できることを示しました(図6(b))。
私たちは、部分空間展開法と仮想蒸留法を特殊な場合としても極めて一般的な量子エラー抑制フレームワークである一般化部分空間法を提案しました(9)。先ほど、部分空間展開法ではパウリ演算子およびその積Pkを用いて、射影演算子 P=ΣkckPkをエネルギーができるだけ下がるように最適化すると述べましたが、一般化部分空間展開法の肝はパウリ演算子(とその積の)Pkを極めて一般的な演算子に拡張したということです。より具体的には、Pkとして量子状態(とそれを含むより複雑な演算子)を採用しました。例えば、P0=I, P1=ρnoisyとすると、射影後の状態はPρnoisyP†=|c0|2ρnoisy+(c0c1*+c0*c1)ρ2noisy+|c1|2ρ3noisyとなり、あたかもノイズのある量子状態により級数展開された量子状態に対応する物理量の期待値がエラー抑制により計算できます。私たちはこれを累乗部分空間法と呼びます(図5(c))。ほかには、外挿法のエッセンスを射影演算子の構築に活用した誤り部分空間法も提案しました。また、累乗部分空間と誤り部分空間を融合した手法も可能です。一般化部分空間法は部分空間展開法と仮想蒸留法の両方の利点を継承しており、コヒーレントエラー、確率的エラー両方を高精度に抑制することができます。その結果、部分空間展開法、仮想蒸留法よりはるかに高精度な量子エラー抑制が可能になりました。
本稿では、量子エラー抑制の概要について知りたい人から、細かい内容まで知りたい人まで満足いくように書いたつもりです。そのうえで、NTTの量子エラー抑制の最先端の成果を丁寧に解説しましたので、ぜひご一読をお願いします。