更新日:2019/05/01
最近もっとも時間を割いているのは、アスリートの脳機能を解明し、パフォーマンスを向上させることをめざす「スポーツ脳科学」の研究です。これに本格的に取り組むようになったのは、2017年1月、プロジェクトが正式に発足してからですから、運動生理学やバイオメカニクスなどが主流のスポーツ研究の世界では変わり種の新参者ということになります。本来の専門は聴覚などの知覚や認知にかかわる脳のメカニズムで、今もそういう研究は続けています。数年前からは、自閉スペクトラム症 (ASD: Autism Spectrum Disorder) などの発達障害も研究対象に加わりました。
こうしてみると、随分異なった分野にあれこれ手を出しているようにみえるかもしれませんが、自分の中では、一貫した問題意識に基づいているつもりです。人間は一般に、さまざまな環境や状況の中で、極めて柔軟に、適応的に行動することができますが、それはなぜ可能なのかということが問題意識です。最近AI(人工知能)の進歩にはめざましいものがありますが、現状では、あくまでも限定された対象や状況において、という但し書きを外せません。囲碁という特定のルールの中では名人に勝てるシステムも、それ以外では全く無力です。一方人間は、起きてから寝るまで、軽重問わず膨大な意思決定をし、多種多様な行為を遂行しています。適度な力加減で歯を磨くことも、車や人を避けながら駅まで走ることも、騒々しい居酒屋で会話することも、情報処理課題としてみると、実は非常に難易度の高いものなのです。にもかかわらず、それを行っている当人は何も難しいことをしている気はしていない。全く無自覚的にやっていますし、なぜできるかと問われても説明できません。このように、人間には無自覚的にできるようなことが、AIにとってはむしろ難しいということがよくあります。では、非常に難易度が高い情報処理課題を人間が苦もなくこなしているとき、脳はそれをどのように実現しているのか。これが各研究テーマに通底する問題意識です。
こうした人間の柔軟な情報処理がもっとも高度なかたちで現れるものの1つが、トップアスリートのパフォーマンスです。格闘技や球技などでは、めまぐるしく局面が変わる中で、ほんの一瞬の間に、その場の状況、相手やボールの挙動といったものに応じて、最適な身体運動を実現しなければなりません。その状況の多様性、求められる精度、許される時間の短さなどを考えれば、これがいかに難しいものか想像できるでしょう。トップアスリートはこの難題を解いた結果として素晴らしいプレーをしているわけですから、その脳機能を研究すれば、具体的なアルゴリズムが見えてくるはずです。同時に、その知見はアスリートにとっても役に立つ可能性があります。というのも、レベルが高くなればなるほど、勝負は身体的能力だけでは決まらないからです。例えばプロ野球でも、球速はさほどでもないのに一軍のエース級の人もいれば、剛速球を持ちながら二軍にとどまっている人もいます。この差を埋めるには、フィジカルなトレーニングだけでは不十分で、認知的側面のトレーニングが不可欠です。それらの方法論を具体的、体系的に確立することも、我々のスポーツ脳科学研究のゴールの1つなのです。
一方で、トップアスリートとは対照的に、多くの人が当たり前にできると思っていることがうまくできないという人たちもいます。その1つがASDの当事者です。ASDは、先天的な脳機能の特殊性を原因とするもので、他者とのコミュニケーションがうまくいかなかったり、興味や活動が著しく偏ったりするといった特徴があります。いわゆる「空気が読めない」、つまり状況に応じた言動ができないとか、慣れていない状況でパニックになるといったことで日常生活が難しくなるわけですが、これは多様な状況に柔軟に適応する無自覚的な脳機能と関係があるともいえるでしょう。彼らの中には非常に知能の高い人もいますし、特定の領域では並外れた能力を発揮する場合もあります。しかし、多くの人が「なんとなく」「適当に」こなしていることが難しいのです。どこか、今のAIを連想させる部分もあるかもしれません。このような例を研究すれば、トップアスリートの場合とはまた別の角度から、状況に応じた柔軟な行動を実現する原理が明らかになるでしょう。特に注目しているのは、感覚系、運動系の特性です。ASDの当事者には、特定の音に対して強い不快感を覚えるといった感覚過敏や、聴力検査では正常なのに日常環境で会話が聞き取れないといった症状で困っている方がしばしばいます。また、手先が不器用とか、動作が非常にぎこちないといった運動特性を示す方も少なくありません。このことは、状況に柔軟に適応するうえで、外界から情報を得て、外界に働きかける装置である「身体」が本質的な役割を果たしている可能性を示しています。この点で、ASDの研究はアスリートの研究ともつながってきます。その先には、AIの適用領域を本質的に拡大するためのヒントも得られるのではないかと考えています。
目下、野球とソフトボールを中心に研究を進めています。おかげさまで、日米のプロ球団、社会人野球チーム、大学野球チーム、日本ソフトボール協会(女子日本代表)、日本女子ソフトボール1部リーグチームなどのご協力をいただき、レベルの高い選手たちのデータがかなり集まってきました(図1)。契約などの関係でまだ公表できない部分も多々あるのですが、彼らの中でもトップレベルの選手とそれには及ばない選手の差が想像以上にはっきり見えてきたりして、なかなかエキサイティングです。
一例として、バッティングに関する研究を少し紹介しましょう。実際の試合では、投手は打者に打たせまいとして、さまざまな球種やコースをうまく混ぜて投げてきます。これを打つというのは、決まったスイングをすればよい素振りやティーバッティングとは異なり、まさに柔軟な対応力が求められます。この対応力の詳細を調べるために、投手に球速の異なる2種類の球をランダムに投げてもらい、打者はストライクなら打ち、ボールなら見送るという設定で実験を行いました。参加したのは日本代表も含む女子ソフトボール選手たちです。ウェアラブルセンサで打者の身体動作を解析してみると、ボールの緩急に対応してバットスイングのタイミングをうまく調整できる打者と、それができない打者とが明確に区別できました(図2)。そして前者は、ボールのリリース後0.1秒くらいまでに得られる視覚情報(リリース前後の投球フォームもしくはリリース直後のボールの軌道)に基づいてスイングすべきタイミングを判断していることが、解析結果から推定できました。そこで、判断に用いられている視覚情報をさらに特定するために、VR(Virtual Reality)を用いて、実際に計測された投球フォームとボールの軌道の情報を入れ替えた条件(速球のフォームから遅球が来る、あるいはその逆)をつくり、先ほどと同様に打者の挙動を計測してみました。すると、本来のフォームと軌道の組合せでは緩急にうまく対応できた選手たちが、投球フォームとボールの軌道の組合せを入れ替えた条件では対応できなくなったのです。この結果は、ボールの緩急に対応できる打者が、投球フォームの情報を用いて緩急を予測しているという明らかな証拠です。さらに興味深いことに、このような打者たちも、自身が投球フォームの情報を利用しているという事実に全く気付いていませんでした。日本トップクラスのある打者は、「この投手の場合、フォームでは球種は分かりません」と語っていました。しかし本人の意識と裏腹に、ちゃんと違いを判別していたのです。このように、本人も自覚できないことを客観的なデータで明らかにするのが我々の真骨頂です。そのために、さまざまなICT、例えばウェアラブルセンサ、コンピュータビジョン、生体信号処理、機械学習、VRなどの技術を駆使して、外から観測できる情報から脳あるいは心の状態を推定することを試みます。本人の主観は大切ですが、それだけでは真実に至らないことも往々にしてありますからね。
このような解析を通して、従来、選手目線では「何となくできる」「身体が勝手に動く」、指導者目線では「センスがある」などと言われていたことが、客観的に把握可能になってきました。前述の実験でのパフォーマンスと、公式戦での調整力の指標と、公式戦での打率とがよく対応することも分かりました。さらに、U14(14歳以下)日本代表候補で同じ実験をやってみると、この段階ですでに緩急に対応できる選手とできない選手に分かれることも分かりました。客観的なデータに基づく選手評価や才能発掘への道が拓かれつつあります。
よくそう言われるのですが、私はむしろ逆だと思っています。優劣がつくのは、あくまでもある特定の評価軸において、ということであって、実際にはアスリートの評価軸はたくさんあるわけです。重要なのは、その選手がたくさんの評価軸の中でどのようなプロファイルを持っているかを正確に把握することです。一口にバッターといっても理想型は1つではありません。個々のプロファイルに応じて、長所を最大限発揮し、短所を克服するように努力すれば良いわけです。例えば、女子ソフトボールの選手で、高校生まで長距離打者として大活躍したのに、日本リーグではまだレギュラーになれない人がいます。彼女は、テ…