更新日:2018/07/12

    スポーツ脳科学プロジェクト〜脳科学×ICTで心・技・体を解明する〜NTTコミュニケーション科学基礎研究所

    スポーツの世界での優れたパフォーマンスには「心・技・体」のバランスが大切だとよく言われます。しかし、従来のスポーツ科学の世界では主に「体」のメカニズムの解明に焦点が当てられ、「心・技」に十分にアプローチされてきたとは言えませんでした。このメンタルやスキルに当たる部分の謎を解き明かすことこそ、パフォーマンスの向上を可能にするのではないかと考え、発足したのがスポーツ脳科学(Sports Brain Science:SBS)プロジェクトです。ハイレベルなパフォーマンスを行うトップアスリートが無自覚に行っている潜在的な脳の働きを解明し、それをもとに「心」と「技」を支えている「脳」を鍛えることを目指して、さまざまな実験や研究が行われています。NTTコミュニケーション科学基礎研究所の西條氏に、その取り組みや目指すところを伺いました。

    話し手

    西條 直樹 氏
    西條 直樹 氏さいじょう なおき
    NTTコミュニケーション科学基礎研究所
    スポーツ脳科学プロジェクト
    主任研究員 博士(工学)
    プロジェクトの背景
    「トップアスリートの脳機能を調べ、パフォーマンス向上の手法を探る」

    優れたスポーツ選手のパフォーマンスは一般の人々と何かが決定的に違います。肉体のトレーニングは重要ですが、トップアスリートになればなるほど鍛え上げられ、フィジカル、つまりハードウェアの差は少なくなっていきます。では似たようなハードウェアで何が勝負を分けているのかといえば脳、つまりソフトウェアの差ではないでしょうか。例えば、投げられた瞬間に球種を判断してボールを打ち返したり、フィジカルテストでは平凡な数値なのに高確率でパンチを避けられたりといったアスリートたちは、フィジカルだけではなく無意識下における脳の判断に依る部分が大きいはずです。この、言葉では説明しがたいアスリートの潜在的脳機能について、メカニズムを紐解くことができないか、それが叶えば勝つために脳を鍛える方法を確立し、アスリートのパフォーマンス向上が可能になるのではないか、そう考えて2017年1月に本プロジェクトが発足しました。現在スポーツの世界には最新のテクノロジーが各種導入され、アスリートのあらゆるパフォーマンスを計測・分析するスポーツアナリティクスが進化し、多くのことがわかるようになりました。しかし、主な分析対象はアスリートが出した「結果」です。結果をいくら論じても、その原因がわからなければパフォーマンス向上にはつながりません。この原因の部分を、サイエンスのアプローチと、最先端の情報通信技術(ICT)を融合させることで追究し、脳機能を鍛えるトレーニング手法の開発や、選手の特性を把握した上での育成や戦略立案に役立てるといったことを目標としています。

    このSBSプロジェクトには、トップアスリートの脳機能を解明するために視覚運動制御を専門とする私のほか、生体信号処理や認知神経科学、聴覚科学、医師、そして元プロのアスリートといったさまざまな分野におけるスペシャリスト約20名が各自のテーマを持ち、ディスカッションしながら基礎研究に取り組んでいます。元は電子加速器のあった広大なスペースに、パフォーマンスデータや各種生体情報を同時に測定可能な実寸サイズのスマートブルペンを設置。各分野のアスリートの協力を得ながら実戦と基礎研究をつなぎ、プロジェクトを進めているのも大きな特徴です。

    トップアスリート達との共同実験
    「無意識の中で起きている脳の情報処理からわかったこと」

    「潜在的(無自覚的・自動的)な脳機能が勝敗を決しているのではないか」、これが我々の立てた仮説です。脳は環境に応じて調節・調整がきく器官です。潜在的な脳機能の働きを捉えて制御・調節することができればパフォーマンスが上がるのではないか、そう考えています。これを検証するため、まずは研究対象の競技として野球とソフトボールを選択しました。これは、瞬間的な対人インタラクションを伴う競技のため、勝敗を決する上で脳の情報処理のウエイトが大きい可能性があること、投げて打つという対戦シチュエーションの再現性が高く、精緻な生体データ計測に向いていることから選択しました。ここで解明されたことはその他の対戦型競技にも応用できるものと考えています。
    そして、このような研究を進めるためには、トップアスリートの協力が必須です。現在さまざまな方の協力を得ながら研究を進めており、例えば日本ソフトボール協会との共同実験では、日本代表の選手たちに協力していただいています。

    ①スマートブルペンにおける投打対戦型の実験
    近年、プロ野球の世界では、Trackmanというレーダーが球場に導入され、投球速度だけでなく、ボールの軌道や回転数など詳細なデータが取得され、例えば一流投手のボールの回転数と変化球のキレの関係など、さまざまな分析が進んでいます。例えばMLBのダルビッシュ投手が一流の投手である所以は、球が速いから、あるいは変化球にキレがあるから、さらには変化球の回転数が多いから、などと言われることがあります。しかし、私たちの観点では少し違った角度からその凄さを感じています。彼の複数の球種の投球フォームの画像を重ねてみるとわかるのですが、彼は異なる球種をほぼ同じフォームで投げ、さらにボールの軌道も最初はほぼ変わらないのです。打者は彼の投球を見た瞬間、どんな球種が来るのかを予測することは非常に難しいはずです。プロの投手の投球は、ボールリリースから約0.4秒でホームベースまで到達します。一般に人間が外界から情報を取り入れてから、意識にのぼるまでには0.3秒ほどかかると言われていますから、球種を認識してからバットを振っていては間に合いません。さらに、人間は何か意思決定をしてから実際に身体の動きを作り出すまでに0.2秒ほどかかるとも言われていますから、ボールを見極めるために打者に残された時間はわずかしかありません。つまり、打者はボールの動きを予測することが必要なのです。
    こうしたバッティングにおける脳情報処理について、我々は女子ソフトボールの選手に協力してもらい、そのメカニズムを調べました。投手と打者両方にスーツ型のモーションキャプチャーシステムを装着して対戦中の身体の動きを精緻に計測し、投手には速球とチェンジアップという、球速の大きく違う2種類の球種をランダムに投げるよう指示し、打者にはストライクの球は必ず打つように指示しました。投手は実業団で活躍する一流選手に、打者は日本代表で世界でもトップクラスの選手と、実業団の新人選手に参加してもらいました。すると、新人選手は速球・チェンジアップともほぼ同じようなタイミングでバットを振り出してしまい、うまく打つことができませんでしたが、トップレベルの選手は速い・遅いというそれぞれの球種によってタメを作り、インパクトのタイミングを合わせることができていました。つまり、彼女はランダムに投じられた球速の違う球をボールリリースから0.1秒程度の間に見抜き、到達時刻を予測してスイングのタイミングを変更できていたことになります。しかし本人曰く「球種はわからなかった」というのです。これは、彼女がこのタイミングの調節を無自覚的に行なっていたことを示唆しています。
    さらに、U-14の選手に対しても同じ実験を行うと、やはりトップレベルの選手と同じく、タメを作ってタイミングを合わせられる選手と、それができない選手がいることがわかりました。こうした能力が元々持っている素質によるものなのか、訓練で向上していくものなのか、U-14の選手については継続的にデータ収集し、選手の成長に伴う能力の獲得過程についても調査していきたいと考えています。

    ②VRを用いた打者の知覚と反応の実験
    では、トップクラスの打者は、投球の中の何の情報を使ってこのような無自覚的なタイミングの調節をしているのか。本人に質問しても「わからない」というわけですが、VRシステムを使うと、その一端が見えてきました。VRシステムは、実際のフィールドでは実現できない投球軌道や投球フォームを生成し、打者の反応を解析することができます。先ほどのトップクラスの打者に対し、投手のフォームと速球・チェンジアップの球種が一致している映像と、フォームと球種を入れ替えた映像を用意し、先ほどの実験と同様にこれらの投球映像をランダムな順に提示し、VR空間内で打撃してもらう実験をしました。すると、打者本人も原因を自覚できないまま、投球フォームと球種が不一致な映像を提示すると打てなくなるということがわかりました。これは、トップクラスの打者は、球種の予測のために、ボールの軌道だけでなく、投球フォームの中に含まれる何かの情報も無意識に利用していることが示唆されます。

    さまざまなアプローチでアスリートの脳に迫る
    「眼球運動からの心的状態推定や身体運動の可聴化など、研究テーマもさまざま」

    プロジェクトのメンバーはそれぞれ研究テーマを持っており、多様な方向からアスリートの脳機能にアプローチしようとしています。例えばマイクロサッカード(眼球の微小な動き)や瞳孔径変化など、眼球運動に現れる特徴から脳や心の状態を推定する手法を応用し、打者が投手の球種判別するときに視野のどれくらいの範囲に注意を払っているかを、打者の眼球運動から推定することを試みました。現役の大学野球部員に協力してもらった実験結果から、球種判別成績が高い選手達の注意範囲は広い、という関係が見えてきました。よく「ボールをよく見て打て」などと言われますが、「どう見るのか」についてはあまり具体的に説明されないことがあります。こうした研究からスポーツシーンでの「目付け」の方法をより具体的に解き明かすことができれば、打撃技術の向上や指導方法の改善などにつながるのではないかと思います。

    また、身体運動を可聴化する、という研究も行っています。スポーツの指導においては視覚的、つまり脇を締めるとか膝を合わせるなどと、身体の形から説明を行うことがよくあります。しかし、スポーツの素早い動作を実現するためには動作のタイミングやテンポが大事な場合が多々あります。このような情報を上手に伝えようとすると、視覚よりも聴覚に訴えたほうが正しく伝わる可能性があると考えています。一般に聴覚は視覚よりも時間分解能が高いと言われており、視覚では気づきづらいほんの少しの時間のズレにも音だと気づくことができます。例えば、元プロ野球選手とアマチュア選手の投球動作を可聴化すると、その違いはすぐに聞き取れます。アマチュア選手の投球動作では歯切れの悪い音に聞こえますが、元プロ野球選手は一定のリズムを持ったクリアな音に聞こえます。聴覚フィードバックは選手に対して直感的に情報をフィードバックできる可能性があると考えており、現在も研究を進めています。

    今後の展開
    「アスリートのパフォーマンスを基礎研究で伸ばす」

    我々のプロジェクトの目標は、アスリートの脳を理解し、脳を鍛えてパフォーマンスを向上させることです。現在は脳における潜在的情報処理のメカニズムを調べている段階です。その結果、トップアスリートは潜在的な感覚運動情報処理が優れていることが見えてきました。今後もさらにICT技術を応用しつつ、アスリートの脳の潜在機能を顕在化し、パフォーマンスとの関係解明に取り組んでいこうとしています。これと同時に、研究で得た結果を現場の選手へフィードバックする方法も探っています。IoTはもちろん、ビッグデータの活用などさまざまな最新技術を取り入れ、VRをはじめとする技術を利用した効果的なトレーニング法の確立や、選手のレベルやタイプ判定、才能の早期発掘といったことの実現も目指しています。我々研究者も似たところがありますが、アスリートが最高のパフォーマンスを発揮するには、たくさんの人々の様々なサポートが必要なものだと思います。我々研究者が脳科学の側面からアスリートをサポートし、最高のパフォーマンスを引き出すことを目標に研究を進めていこうと思っています。

    (2018年5月29日取材)

    【参考情報】

    1. Nasu, D., Yamaguchi, M., Fukuda, T., Saijo, N., Kashino, M., Kimura, T.: Perception-action linkage in top athletes during batting. The 47th annual meeting of the Society for Neuroscience, Washington, DC, USA, 2017.11.11-15.
    2. Kimura, T., Nasu, D., Kashino, M.: Utilizing virtual reality to understand athletic performance and underlying sensorimotor processing, The 12th Biennial conference on the Engineering of Sport on behalf of the International Sports Engineering Association (ISEA2018), Brisbane, Australia, 2018.3.26-29.
    3. Yoneya, M., Masai, K., Kimura, T., & Kashino, M. (2017). Examining visual span size in sports performance using the dynamic properties of microsaccades, Program No. 3P-125. 2017 JNS Meeting Planner. Makuhari: Japan Neuroscience Society, 2017. Online.
    4. Kimura, T., Mochida, T., Ijiri, T., Kashino, M.: Real-time sonification of motor coordination to support motor skill learning in sports, 2nd International Congress on Sport Sciences Research and Technology Support (icSports2014), Italy, 2014.10.24-26

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