FEATURE
問いのかたち
― 技術と社会をつなぐ研究者たち
技術は法の先を行く〜法律分野と暗号技術の研究者が語る「ルールの作り方」〜
#法制度・ガバナンス #声の権利 #耐量子計算機暗号
技術と法が絡む分野に興味を持ち、技術の最前線で法の研究に取り組む荒岡草馬研究員(写真左)。一方、暗号技術の研究からキャリアを始めた武藤健一郎主任研究員(写真右)は、政府機関への出向やNTTグループ全社のセキュリティガバナンスを経て、研究開発の現場に戻ってきた。「声の権利」に「次世代暗号への移行」と分野は異なるが、2人の前には共通の問いがあった。「技術が法を置き去りにしたとき、ルールの空白をどう埋めるのか――」
制作協力:東洋経済ブランドスタジオ
自分の声が無断利用されたら、法律は守ってくれるのか
荒岡氏は九州大学法学部を経て大学院では情報法を専門とし、2021年にNTT社会情報研究所に入社した。入社6年目の現在、社会イノベーション研究プロジェクトAIセキュリティ活用技術研究グループで研究員を務めている。
研究の中心テーマは「声の権利」だ。AI音声合成技術の進化により、ほんの数秒の音声データから本人そっくりの合成音声を生成できるようになった。有名人の声で無断でナレーションを作る、俳優の声で本人と無関係な文章を読ませるといった悪用事例が国内外で相次ぎ、日本では2023年以降、声優や俳優が所属する日本俳優連合が中心となり、声の保護を求める動きが加速している。
「声の権利」とはいったいどのようなものだろうか。日本では、法令上「声」そのものを保護する権利は認められていない。学説では、現行法のスキームで声を保護対象にできないかが議論されている。著作権法では声そのものは著作物や実演にあたらないため、守られていない。一方、有名人の氏名や肖像が持つ経済的価値を保護するパブリシティ権という権利がある。これは判例で認められてきた権利だが、声をどこまでカバーできるかは議論の途上にある。パブリシティ権の対象に声を含めるべきだとする学説は有力だが、裁判所の判断はまだない注1。
荒岡氏のチームは理論研究を進めるとともに、その研究成果として、NTTグループ各社に「声の権利ガイドライン」を提示した。グループ各社が声を扱うサービスを企画する際に確認すべきリスクや、契約上の権利帰属の考え方をまとめたものだ。2025年10月にNTT西日本が発表した音声合成サービス「VOICENCE(ヴォイセンス)」には、このガイドラインの知見が活用されている。
量子コンピュータが現代のあらゆる暗号を読み解く日が迫る
武藤氏は2009年にNTT研究所に入社し、暗号技術を応用したセキュリティシステムの研究開発からキャリアを始めた。NTTコミュニケーションズ(現NTTドコモビジネス)での標的型攻撃対策ソリューションや、研究所での暗号・認証・セキュリティチップの応用システムなど、技術の現場を歩いてきた。
転機は2019年、セキュリティを担当する政府機関への出向だ。ここで2年間にわたり政府全体のセキュリティ対策推進に携わった。帰任後は、NTTグループ全社のセキュリティガバナンスの担当部署を経験し、その後、研究所で2025年4月からPQC(耐量子計算機暗号)への移行に向けた研究開発に取り組んでいる。
量子コンピュータの開発が加速するにつれて、現在広く使われている公開鍵暗号が破られる事態が現実味を帯びている。早ければ2030年代に暗号を解読できる量子コンピュータが登場するとの見方もある。そこで、量子コンピュータでも解読が難しい次世代の公開鍵暗号として注目を集めているのがPQCだ。各国は2035年頃までのPQC移行完了を目標にロードマップを描き始め、日本も政府機関の主要システムについて同様の方針を打ち出した。しかし、量子コンピュータがいつブレイクスルーするかは誰にもわからない。数年後に突然実用化する可能性もある。
現在の公開鍵暗号は、暗号化通信、認証、電子署名といったあらゆる情報システムのセキュリティ機能に組み込まれている。武藤氏は「PQCへの移行はすべての情報システムが対象になります」と語る。従来は暗号の鍵を長くすることで安全性を保ってきたが、PQC移行ではアルゴリズムそのものを入れ替える必要がある。また、既存システムとも整合させる必要があり、移行の際に思わぬ副作用や悪影響を与えるリスクが伴う。
こうした課題に対応するための概念が「クリプトアジリティ」だ。暗号方式を柔軟かつ迅速に切り替えられるようにする考え方だが、武藤氏によれば「正解がまだない」状態だという。
法と技術の隙間にどう向き合うか
2人の研究テーマには共通する構造がある。技術が法より先に進み、ルールが追いついていないという状況だ。
荒岡氏は法律分野の研究者の立場からこの状態を「必然です」と説明した。法規範として確立されるまでには、国レベルでの立法の議論や裁判の蓄積による判例法理の形成が必要であるため、変化の速い技術の動きに機動的に対応できない。たとえ時間をかけて法律を制定したとしても、その時にはすでに新たな技術が登場し、せっかく作った法律が使い物にならなくなる可能性もある。
「法に求められるのは普遍性と安定性です。技術が先に進み、法が後から追いつくという順番は今後も変わらないと思います」
では技術と法の隙間はどう埋めるのか。荒岡氏が挙げるのは、変化の速い技術に柔軟に対応する手段だ。ガイドラインや政府の指針、業界の自主規制といった仕組みは、法律に比べて拘束力は弱いが、状況に合わせて改定しやすい。共通認識が固まった段階で法制度に昇華させるアプローチが考えられるという。「声の権利のための法律を直ちに作るべきだとの意見を耳にしますが、その中身や必要性については慎重に検討すべきだと思います。まずはガイドラインなどの策定プロセスで声の保護と利用に関する社会の多様な意見を交わらせ、合意形成を図った上で、どのような法制度や権利概念による規律が必要かを判断すべきです」と荒岡氏は指摘する。法ができること自体が社会に与えるインパクトは大きい。だからこそ、段階的な対応が求められる。
武藤氏も別の角度から同じ課題を見ている。社会にセキュリティ対策が根づく力学として「ルールがあるからやる」という側面は確かに存在する。ただし、ルールの形骸化には警鐘を鳴らす。
「目的や意図が理解されないままルールのみが独り歩きすると、リスクへの対応がずさんなまま放置されてしまう場合がある。そのような状況を放置すると、いつかリスクが露呈してしまうでしょう」
政府機関でのセキュリティ対策推進やNTTグループのガバナンス業務で、武藤氏はルール策定とルール運用の両方の現場を目の当たりにしてきた。セキュリティ対策の現場が「ルールを守りさえすればよい」と形だけの対応に終わらないよう、ルールの策定側と運用側との意識のギャップをどう埋めるかが、ルール運用の実行性を左右する。
また、技術やルールだけではなく、危機意識の醸成も対策を根づかせるには欠かせないと語る。大企業と中小企業では導入できる対策が異なる以上、技術的対策の一律強制は現実的ではない。技術だけではなく、人や組織も含めてリスクに対応していく必要がある。
法と技術の架け橋になる
技術を扱う企業研究所であるNTT社会情報研究所に法律分野の研究者がいる意義について、荒岡氏は2つの側面を挙げた。1つは開発の初期段階から法的観点を組み込めることだ。技術やサービスの完成間近に「これは法的に世に出せません」という事態を防ぎ、どうすれば問題をクリアできるかを一緒に考えることができる。
もう1つは、技術の最前線を法学の世界にフィードバックし、架け橋になることだ。法律家のすべてが技術に明るいわけではない。技術の最新動向とその価値を共有し、建設的な課題と解決策を提示する。「研究所には、思いを持って技術の開発に取り組む人がいます。そのモチベーションをリスペクトしなければ課題解決にはつながりません」と語った。
一方、武藤氏は出向時の業務経験を研究開発に活かしている。政策文書は難解で膨大な量だが、各省庁がどの立場から何を考えているかを読み解く力がついた。政策動向から民間への波及を見通し、どの技術をどのタイミングで届けるか、戦略を立てながら研究開発を進めている。
暗号は専門性が高く、一般の理解が及ばない部分もある。「必ずしもセキュリティや技術に詳しい人ばかりではないため、リスクと対策をわかりやすく説明することも大事。技術と社会をつなぐことを入社以来大切にしながら、セキュリティに取り組んできました」と語る。技術の開発だけでなく、その意味を届けることが、技術を社会に根付かせるための条件だという考えだ。
変わらない原則、変わり続ける各論
2人は5年後、10年後の技術と法の関係をどう見るのか。荒岡氏は「権利などの法律学上の概念は、政治体制や社会状況の大きな変化を受け止めながら、長い歴史をかけて今日まで形成されてきたものです。行政や裁判のDX化など、すでに確立した分野での技術と法の融合は進んでいるものの、それらを支える根本概念が新技術の登場で一気に変わることはないでしょう」と語る。
武藤氏は「国民の生命や財産を守るといった普遍的な原則は変わらないでしょう」とした上で、各論のアップデートの難しさに言及した。推奨にとどめるルールと強制するルールでは社会への影響が異なる。法律の専門家だけでなく、ガイドラインの策定者やセキュリティの専門家など、さまざまな立場の関係者が目的を共有できなければ、実効性のあるルールは作られないと語った。
技術は次々に変化していく。だが社会のルールを作る営みには時間がかかる。その間隙を埋める手段は、ガイドライン、技術的対策、そして現場で法と技術をつなぐ研究者の存在だ。異なる専門領域から同じ問いに向き合う2人の姿が、その一端を見せていた。
注1) 2026年4月に、法務省が「肖像、声等の無断利用による民事責任の在り方に関する検討会」を立ち上げ、パブリシティ権を含む各種権利について国レベルでの本格的な議論が開始された。また、同年5月には、声優の津田健次郎氏が、生成AIによる自身の声の無断利用について、国内初となる訴訟を提起したことが報じられた。