FEATURE
問いのかたち
― 技術と社会をつなぐ研究者たち
「会社と個人は一体化しなくていい」〜組織と研究者がめざす「働く価値観」の再定義〜
#ウェルビーイング #エンゲージメント #組織開発
サイバーセキュリティ一筋18年の研究者が、ある日突然人事へ異動となり、一人ひとりの研究員と向き合うことになった。その一方、別の研究者は、教育現場や職場など人の育成をデータで解く中で「データ分析だけでは人は変わらない」と気づき、従業員の価値観も捉えるウェルビーイング研究へと踏み込んだ。NTT社会情報研究所で人事と研究、2つの立場から「働く価値観の再定義」をめざす二人に話を聞いた。
制作協力:東洋経済ブランドスタジオ
17万人の価値観をデータで可視化する
NTTグループでは毎年、国内約17万人の従業員を対象にエンゲージメント調査を実施している。その中に、NTT社会情報研究所が独自に組み込んだ設問がある。
「あなたが働く上で大事にしていること、もしくは大事にしたいと思っていることは、どんなことですか」
25の選択肢から1つを選び、その価値観がどの程度満たされているかを5段階で答える。ここから見えるのは、「従業員が何を大切にし、それがどの程度満たされているか」だ。
この「働く価値観に着目した測定・分析技術」を推進するのが、石井方邦主任研究員だ。社会心理学やデータ分析、AIの専門家が集まる文理融合型のチームで、Well-working(働く場のウェルビーイング)とWell-learning(学ぶ場のウェルビーイング)のサブグループリーダーを務めている。
石井氏は2010年にNTTの研究所に入社した。ビッグデータやAIを使ったデータ分析を3年間担った後、NTTコミュニケーションズ(現NTTドコモビジネス)に異動し5年半の間、営業やサービス企画の現場を経験している。研究所に戻ってからは人事・教育分野を含むあらゆる現場のデータ分析とDXを20案件以上手がけた。「当たり前ですが、従業員は一人ひとり違った価値観を持っていることがわかりました。それはつまり、生産性の上げ方も個人で異なるということになります」。データだけでは届かない領域があると痛感し、社会心理学など人文科学の知見を取り入れたウェルビーイング研究に従事するようになった。
石井氏と共にインタビューに応えたのが、同研究所で約200名の社員の人事を担当する青木一史担当部長だ。青木氏は2006年に入社し、マルウェア解析や脅威インテリジェンスなどサイバーセキュリティの研究を続けてきた。2024年7月に人事担当に就いた経緯を聞くと、「予想外のアサインではありましたが、これまで経験したことのない仕事に挑戦できることに、大きな期待を感じていました」と語った。現在は研究者のキャリアや育成を見る立場だ。
石井氏の研究の土台にあるのが「わたしたちのウェルビーイングカード」だ。NTTの研究者である渡邊淳司氏らが開発した32枚の価値観カードを基に、職場向けに24項目の価値観リストへ絞り込んだ。現在は従業員全員がこのリストの中から1つを選び、その価値観の満足度を5段階で回答している。
石井氏のチームは、この価値観データとエンゲージメント調査の結果を掛け合わせて分析する。例えば「心安らかに働く」を選んだ層と「達成感を持てる」を選んだ層では、エンゲージメントを左右する要因が異なる。NTTの総務部門が定義する戦略指標に対し、研究所は価値観の側面から「なぜその状態が生じているのか」を解き明かす役割を担っている。
リモートスタンダードで見えてきた「目的の重要性」
では、実際にこうしたデータが現場でどのような効果を生むのだろうか。青木氏が人事として最初に直面した課題が、その一例になる。それは若手の「育成」だ。
NTTは「リモートスタンダード」制度を導入し、自宅を標準的な職場としている。エンゲージメント調査でもこの制度への評価は高い。
だが副作用もある。研究所では入社1〜2年目の若手に、自ら研究テーマを立案・遂行させる「テーマ企画」というOJTプログラムがある。かつてはこのプログラムが何を期待し、どんな成長をめざすものなのか、先輩の姿を間近で見ることで若手にも自然に伝わっていた。しかし、リモート中心の環境では、プログラムの目的や背景が十分に共有されていないこともあり、手順だけが独り歩きする状況が生まれていたと青木氏は語る。
石井氏の研究グループのメンバーも研究データからその状態が生まれる構造を確認している。「コロナ禍前に職場でたくさん話していた人はオンラインでもよく話す。だが、もともと話していなかった人とはまったく話さなくなる」。リモート環境では既存の関係が維持される一方、新しい関係が生まれにくいという傾向が見えてきた。
青木氏は所長や幹部と議論を重ね、テーマ企画の目的や期待する成長を明文化した。すると、ベテランからは「確かにそうだよね」とあっさり同意が得られた一方で、若手からは「そういうことだったんですね」という新鮮な反応が返ってきたという。リモート世代にとっては、明文化されて初めて見えるものがあったのだ。
社会情報研究所では、四半期に一度開催していた全所員総会の形も変えた。従来は幹部からのトップダウンによるメッセージの伝達が中心だったものを、幹部と一般社員の約200名がオンラインとオフラインのハイブリッド形式でグループワークを行い、研究所の方向性を議論するなど、目的を持って双方向にやり取りする場に作り変えた。
エンゲージメント調査の分析でも、目的を持って集まる「目的指向型出社」がランダムな出社より職場によい影響があるという結果がある。現場の施策とデータが示す傾向が同じ方向を指していた。
会社と個人の関係を「自分で選べる」組織へ
このように、研究と現場の施策が研究所内で連動し始めた。では、その先にどんな組織像を描いているのだろうか。石井氏は「会社と個人の価値観は、一体化しなくていい」と語る。
「会社はこういう方向、自分はこういう方向だとわかっていれば、会社との付き合い方は自然と決まってきます。自分の考えを曲げてまで合わせるということもなくなるでしょう」
エンゲージメント調査の設問群をもとに、継続勤務の意向は高いが貢献意欲が低いといった「静かな退職」状態の社員が約10%いることがわかっている。その主因はキャリア成長の機会への不満だった。石井氏は、従業員が会社に合わせることを求めるのではなく、互いの価値観を知った上で、自分と組織との折り合いを自分で選べる状態をつくるほうが、結果として貢献意欲の回復につながると考える。
この考えを現場に実装するため、石井氏はプラットフォームを構想している。チームの構成やエンゲージメントの状態を可視化し、それに応じた打ち手をマネージャに提示する仕組みだ。青木氏はこれに「今は主体的なキャリア形成が求められる。チームやメンバーの状態が可視化されれば、本人と話し合いながらキャリアを考える後押しになる」という見解だ。人事が「こうしなさい」と指示するのではなく、現場が自ら改善策を回す。研究者の構想と、人事が求める姿は確かに一致していた。
NTTグループ内で蓄積してきた知見を、社外でも検証する動きが始まっている。2025年12月から、パーソルホールディングスの社員約800名を対象に、NTTと同じ設問で「働く価値観と満足度」を調査する共同実証実験を開始した。
あわせて、有志社員を対象とした「"はたらくWell-being"探求ワーク」も進めている。画面に向かい、自分の価値観と会社のパーパスとの関係を深掘りしていく対話型のプログラムだ。
こうした取り組みを支える組織文化も変わりつつある。NTTグループでは2022年から「失敗カンファレンス」を開催し、グループ各社の社員が失敗談とそこからの学びを共有する場を設けている。2025年12月には4回目を数えた。また、社内公募のポストは3000を超え、自ら手を挙げて異動する社員も増えている。青木氏は「上意下達の文化から、個人を尊重する文化へと変わってきています」と語り、こう付け加えた。「私自身、人事部門に来たことで、研究員時代には触れ合ったことのない人と出会いながら今までにない目線で業務を行えており、とても良い経験ができていると感じています。私の場合は業務アサインという形で人事に携わることになりましたが、主体的なキャリア形成を後押しするさまざまな施策を通じて、皆さんのキャリア目標を実現してもらいたいですね。」
17万人分の働く価値観の調査データは、まだ蓄積が始まったばかりだ。一人ひとりが自分の大切にするものを知り、組織との関係を自分で選ぶ未来がやってくる。「働く場のWell-being」の研究は、働く人と組織の関係を静かに再定義しようとしている。